2015年5月14日(木)主の選び(ヨハネ15:16-17)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
信仰生活を送っていて、誰もが経験することだと思ますが、神のことを捉えようとして一生懸命になっている自分というものがいます。しかし、そういう一生懸命になっている自分を捉えていてくださっている神の存在に気がつかされる、ということが起こります。ものの捉え方の転換みたいなものが、信仰生活を送っているうちに起こります。
真理を捉えたと思った自分が、実は神によって捉えられている。まこと救い主を選んだと思った自分が、実は神によって選ばれている、これが信仰の神秘であり、また信仰の真髄であるような気がします。
今日お読みする聖書の個所には、わたしがあなたがたを選んだ、とおっしゃるイエス・キリストのお言葉が出てきます。
それでは、早速聖書をお読みしたいと思います。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 15章16節、17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」というイエス・キリストのお言葉は、二つの考え方を正しているように思います。一つは「わたしがイエス・キリストを選んでいる」という考え方です。最後の晩餐に集まった弟子たちの中には、そういう考えの人もいたかもしれません。「たとえ他の弟子たちがあなたを見捨てようとも、あなたにお従いします」とたんかを切った弟子のペトロには、わたしがイエス・キリストを選んでいるという気持ちがあったかも知れません。
一般的に言って、宗教を選んで信じるということの中には、だいたい、そういう気持ちが含まれているのではないかと思います。わたしが判断し、わたしが取捨選択し、わたしが信じている。「わたし」という人間こそが宗教の主体であって、わたしが選ぶか選ばないかで、すべてが決まるのだという考え方です。道を求めて教会の門をくぐる時には、大抵の人はそういう思いがあるのではないかと思います。実際、自分自身のことを考えてみても、やはり、最初に教会へ行ったのはわたしが決めたからだという気持ちがありました。
しかし、このことは裏を返せば、わたしが辞めたいと思うときには、いつでも辞める事ができるという、危うさがそこにはあります。本当の信仰というのは、神に対して絶対的な信頼を寄せるものですから、いつでも辞めることができるという思いとは、相反するものがあります。
ほんとうに神を信じるというときには、「わたし」というものが中心ではなく、わたしが信じているというそのこと自体も、神からの選びと感じ取れることができるようになっているのだと思います。「このわたしが選んだのではなく、イエス・キリストの方がわたしを選んでいてくださっている」、そういう信仰的なものの見方の転換点を、イエス・キリストの言葉はわたしたちに求めているように思います。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」
イエス・キリストがこのことをおっしゃったのは、もう一つの考えを正すためでもあったと思います。
「わたしがキリストを選んだのだ」という考え方には、自分自身に対する自信があります。それは、自分が強い時だけに感じることのできる自信です。「わたしが選んだのだ」という「わたし」自身が実際には弱い存在なのですから、そういう弱い自分の選択の上に成り立っている信仰は、そもそもの基盤が危ういのです。ですから、自信を失うときに、信仰さえも失いかけてしまうということがしばしば起こります。自分はもう駄目だと思い始めたとき、信仰までも駄目になってしまったと思い、救いの恵みが自分から失われてしまったと思い始めてしまうのです。
しかし、自信を失い、わたしはもう駄目だと思う考え方に対して、イエス・キリストは「わたしがあなたを選んでいるのだ」とおっしゃって、わたしたちを励ましてくださいます。わたしたちが強いときにも、弱り果てているときにも、選んだのはわたしだとイエス・キリストはおっしゃってくださいます。
ところで、イエス・キリストが選んでくださったということは、ここでは「任命してくださった」、「立ててくださった」ということと結び付けられています。イエス・キリストが選んでくださり、イエス・キリストがわたしたちを働きにつかせていてくださっています。
「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
イエス・キリストはここで、弟子たちを任命する目的を二つ挙げています。一つは出かけていって実を結ぶこと、もう一つは弟子たちがイエスの名によって願うものが何でもかなえられることです。どちらも、既にイエス・キリストが最後の晩餐の席上で弟子たちに語られたことです。
15章の初めのところで、弟子たちはキリストに繋がったぶどうの枝であるといわれています。そのようにキリストが弟子たちを選んでぶどうの枝として下さった、その目的は、実を結ぶためです。弟子たちは豊かな実を結ぶようにと立てられています。
いえ、むしろ、イエス・キリストによって選ばれ、立てられているからこそ、その結果として、出て行くことも、実を結ぶことも可能なのです。
また、主イエス・キリストが、願事をかなえてあげようとおっしゃったのは、今学んでいる個所の一つ前の章、14章の13節14節でした。今日の個所では、その事がもう一度確認されています。ただ、「かなえてあげる」という約束が述べられているのではなく、父なる神に願う事柄が与えられるために、あなた方を選び、任命したのだと言いきってくださっています。
このイエス・キリストの言葉をしっかりと受けとめて歩むときに、傲慢な思いもからも、また、自分を卑下してしまう思いからも解放されて、ほんとうにわたしを選び、立ててくださるイエス・キリストに謙虚に従って行くことが出きるのです。