2015年5月7日(木)あなたがたは友である(ヨハネ15:11-15)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ずいぶん昔の話ですが、ある計画について話し合う会議で、自分の意見を求められた事がありました。それで、自分の考えを率直に述べたところ、その考えが実情とまったく合っていないということを知らされて、とてもショックを受けたことがありました。現状を把握していなかったことはわたしの落ち度かもしれませんが、内部の詳しい実情は、それにかかわっている人しか知り得ない秘密です。そんなことなら、最初からすべてのことを知らせた上で、こちらの考えを聞いて欲しかったと、ちょっと残念に思いました。
しかし、考えてもみれば、すべてを打ち明けることができる相手というのは、よほど信頼のおける相手でないとそういう気持ちにはなれないものです。真剣に受けとめてくれる相手でなければ、自分の内側に留め置いていることなど、明かしたりはしないでしょう。そして、そういう事柄を率直に語り合えるようになれば、それこそ親友と呼び合える間柄なのではないかと思います。
さて、きょう取り上げる個所には、イエス・キリストがわたしたちのことを、すべてを語り聞かせた友であると呼んでいてくださっています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 15章11節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
今わたしたちが学んでいる個所は、イエス・キリストが十字架にお掛かりになる前に、弟子たちと最後の食事を取られたときにお話になった、いわば最後の説教とも言うべき個所です。最後の説教、お別れの説教というのは、聞いている者にとって寂しい感じがするものです。実際、イエス・キリストはこれまでのところで、ご自分が地上を去るときが来たことを弟子たちに語ってこられました。残される側の弟子の気持ちを考えると、とても寂しい雰囲気がその場を支配していたように思われます。それで、先週取り上げた個所には、地上に残された弟子たちがぶどうの木であるイエス・キリストの愛のうちにとどまっているようにと勧められていました。
イエス・キリストがそうしたことを語ってこられたのは、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と記されています。それは、イエス・キリストの喜びがわたしたち信じる者のうちに満ち溢れ、わたしたちの喜びがキリストの喜びで満たされるということです。そのためにこれらのことをキリストはお語りくださいました。キリストの喜びがわたしたちの心に満ち溢れるように、キリストの言葉に耳を傾けて行きたいと思います。
さて、先週の個所に出てきた、ぶどうの木のたとえは、キリストの愛のうちにとどまるということの大切さを、教えたたとえでした。では、キリストの喜びがわたしたちのうちに満ち溢れるために、キリストの愛のうちにとどまるとは、具体的にどう言うことなのでしょうか。
イエス・キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟について、ここでもう一度お語りになります。この掟はすでに13章34節で、イエス・キリストが新しい掟として弟子たちに与えられた命令です。イエスの愛の内にとどまるとは、具体的にはイエス・キリストが与えた新しい掟を守ること、つまり、キリストがわたしたちを愛されたように、互いに愛し合うということです。互いに愛し合うことを通して、イエスの愛の内にとどまりつづけることができるということです。
それで、この「互いに愛し合う」ということの模範として、イエス・キリストは「わたしがあなたがたを愛したように」とおっしゃっています。その愛とは、友のために命を捨てるほどの愛です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とイエス・キリストはおっしゃっています。
実際に命を捧げるかどうかということは別として、自分を犠牲にして友のために尽くす生き方、友のために命がけになる生き方、ここにキリストの愛の内に生きる者の姿があります。
以前、商社マンを辞めて、牧師になった方のお話を新聞記事で読んだことがあります。その人がキリスト教に初めて触れたきっかけは、海外へ赴任した時に、現地にあった日本人教会に出席する機会があったからでした。そのとき、その集会に集まるクリスチャンたちについて、一番印象深く感じたことは、誰も、自分自身のことについてではなく、みんなが他の人たちのことを気に留めたり、心配したり、祈ったりしている、そういう姿だったそうです。今まで商社マンとして、いつも他人を蹴落として生きぬくことに明け暮れていた自分とは、まったく違った生き方の人々に出会うことができて、ほんとうに考えさせられたそうです。
イエス・キリストのうちにとどまって、互いに愛し合うとは、そういう生き方ではないかと思います。
さて、こういう生き方をする者たちを、イエス・キリストは「わたしの友である」とおっしゃっています。友であるというのは、僕や奴隷ではないということです。奴隷は主人から命じられたことをただ何も考えずにしなければなりません。自分のしていることの目的や効果や意味について、主人から何の説明を受けなくても、それをしなければならないのです。
キリストは弟子たちにこうおっしゃいます。
「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである」
イエス・キリストが弟子たちを「僕」や「奴隷」とは呼ばずに、「友」であると呼びかけているのには、理由があります。それは、イエス・キリストが父なる神のみ心を、ことごとく弟子たちに知らせているからです。
イエス・キリストから「友」と呼ばれ、父なる神の御心を知らされているわたしたちは、活き活きと生きる道が開かれています。何も知らされずに、命令だけが下されるのではないからです。神の御旨を深く知らされて、そのうえで従うことが求められているからです。何も知らされない奴隷ではなく、すべてを語り聞かされた友であるからこそ、喜びをもって従うことができるのです。