2015年4月30日(木)まことのぶどうの木(ヨハネ15:1-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
山梨県にあるブドウ畑を訪れた時のことですが、山の斜面を利用した広大なブドウ畑に、ほんとうに目を見張る思いがしました。ブドウ棚にたわわに実るブドウの実、その一つ一つの実を支えている一本のブドウの木。そして、このブドウの木と実を結び付けている、四方に広がる枝。これらが一体となってブドウ畑の美しさを形造っているのだと思うと、感慨深い気持ちになりました。
リンゴやミカンの木と違って、ブドウは実のなる場所と木の幹とが、互いに遠く離れてます。ブドウの実だけを見ていると、木の幹の存在をすっかり忘れてしまうくらいです。
さて、今日の個所では、イエス・キリストが、「わたしはまことのぶどうの木」であると、おっしゃっています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 15章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
イエス・キリストはご自分を指して、「わたしはまことのぶどうの木である」とおっしゃっいます。「わたしは〜である」という言い方は、このヨハネによる福音書の中では、繰り返し、繰り返しイエス・キリストの口に上っている言葉です。
「わたしは命のパンである」「わたしは世の光である」
「わたしは良い羊飼いである」「わたしは甦りであり命である」「わたしは道であり、真理であり、命である」
これらの「わたしは〜である」という言い方は、「わたしこそが〜である」という気持ちがそこには込められています。「あの人はリンゴの木だけど、わたしはぶどうの木だ」というのとは違います。「わたしこそがぶどうの木である」とイエス・キリストはおっしゃっているのです。
それも、ただのぶどうの木ではなく、「まことのぶどうの木」です。キリストが「わたしはまことのぶどうの木である」とおっしゃられたのには、実はぶどうの木ならざるぶどうの木があったからです。
旧約聖書の時代から、神の民であったイスラエルはぶどうの木にたとえられてきました。たとえば詩編80編の作者はこう歌います。
「あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました。そのために場所を整え、根付かせ この木は地に広がりました。」(詩編80:9-10)
エジプトから導き出されたイスラエルの人々は、新しい土地カナンへ植えられたぶどうの木だったのです。しかし、そのぶどうの木は豊かな実を結びませんでした。預言者のイザヤはぶどう畑の歌を歌って、主の言葉をこう伝えます。
「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。 わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」
「ぶどう畑の愛の歌」と聞けば、どれほど甘い調べの歌かと思いますが、実際には神の愛に応答しなかったイスラエルの人々への非難の歌です。
イエス・キリストが「わたしこそまことのぶどうの木である」とおっしゃっているのには、こうしたイスラエルの歴史がその背景にあります。実を結ぶ事の出来ない神の民イスラエル。それに対して、イエス・キリストはご自分こそがまことのぶどうの木、まことのイスラエルであるとおっしゃるのです。このキリストにつながっているときに、わたしたちもまことの神の民となることが許され、豊かな実を結ぶ事が出来るとキリストはおっしゃいます。
しかしイエス・キリストは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」とおっしゃいます。ぶどうの木ににつながっていながら実を結ばない枝というのは、実際のぶどうの木にはありがちな事だそうです。ぶどうの実がなるように枝を剪定することがぶどうを育てる農夫には欠かせない仕事であったと聞いています。
ここで、キリストが実を結ばない枝についておっしゃっているのは、裏切り者のユダのことが念頭にあったのかもしれません。あるいは、かつての選民イスラエルのことを念頭に。そうおっしゃったのかもしれません。しかし主イエスが一番おっしゃりたかったのは、実を結ばない枝になってしまう事の危険性でもなければ、また、そういう枝を神が容赦なく剪定してしまわれるということでもありません。
そうではなく、イエス・キリストがお話しになっているのは、ご自分につながっている弟子たちを相手にした言葉です。弟子たちがキリストにつながっているというばかりではなく「わたしもあなたがたにつながっている」とキリストはおっしゃいます。ここでは、キリストにつながり、豊かな実を結ぶようにすでに清くされているという恵みが大切なポイントです。イエス・キリストというぶどうの木から栄養分をたくさんいただけるようにと、キリストもまた私たちの方へと繋がっていてくださるのです。
では、キリストがわたちたちとつながってくださっているとは、具体的にどう言うことなのでしょうか。イエス・キリストはおっしゃいます。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
キリストがわたしたちを愛してくださること、そのことを通してキリストがわたしたちに繋がっていてくださいます。そして、わたしたちがキリストに繋がるとは、わたしたちを愛してくださる、このキリストの愛のうちにとどまるということなのです。キリストの愛を離れては、何も実を結ぶことはできません。このキリストの愛のうちにとどまるときに、豊かな実を結ぶものとされるのです。