2015年4月16日(木)別の弁護者(ヨハネ14:15-24)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
神を身近に感じることができるということ、これほど信仰生活にとって大きな慰めと励ましはありません。イエス・キリストはきょう取り上げる個所の中で「あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束してくださいます。その約束をキリストはどのように実現してくださるのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 14章15節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
きょう取り上げた個所には、別の弁護者を派遣する約束が記されています。イエス・キリストがお遣わしくださる別の弁護者は、17節では「真理の霊」とも呼ばれています。
イエス・キリストは少し前のところで、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」とおっしゃいました。イエス・キリストが弟子たちのもとを去って、再び戻ってくるまでの間、キリストに代わって弟子たちを助ける働きをするために、この派遣されてくるお方は「別の」弁護者と呼ばれています。イエス・キリストは世を去って、父のもとにお帰りになりますが、決して、弟子たちを放置されるのではありません。別の助け主をお遣わしになって、弟子たちを支えてくだいます。
さて、その遣わされてくるお方は、「弁護者」と呼ばれています。この言葉のもともとの意味は「傍らに呼び寄せられた者」という意味です。傍らに立って、助けたり、励ましたり、弁護したりしてくださるお方です。そのようなお方が、わたしたちと一緒に、わたしたちとともに、そしてわたしたちのうちにいるようにしてくださると約束してくださいます。「一緒に」「ともに」「うちに」とイエス・キリストは言葉を変えながら、この弁護者である聖霊が、私たちのそば近くにいてくださるということを教えてくださいます。この弁護者がともにいてくださるので、どんなときにも神の助けを身近に感じることができます。「共にいてくださる神」という旧約聖書の時代から繰り返し語られてきたテーマは、今や聖霊によっていっそう身近なものとされました。
しかも、そのお方がわたしたちの内に留まるのは、一時的のことではありません。出たり入ったりというのでもありません。「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と約束してくださっています。わたしたちの生涯を通して、いつもわたしたちを守り、わたしたちを助けてくださるお方がいつまでも一緒にいてくださるのです。わたしたちが窮地に陥るときも、力なく不安に思うときも、聖霊がわたしたちを助けてくださいます。
この別の弁護者を派遣する約束に続けて、イエス・キリストはこうおっしゃいます。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」
ヨハネ福音書の言葉は、いつも受け取りようによっては、二重三重の意味合いを持ったあいまいな表現が多いというのが特徴です。ここでも、「別の弁護者が与えられる」という個所から続けて読むと、イエスが戻ってこられるというのは、この弁護者の派遣を通して戻ってくるという意味にも取れなくはありません。
また、今学んでいる14章の頭にさかのぼって考えるならば、世の終わりのときに再び来られるキリストのことを指しているようにも取ることができます。そこでは、場所を用意して再び弟子たちを迎えるために戻ってこられるイエス・キリストについて記されているからです。特に20節の「かの日」という表現は、世の終わりを語る独特な表現を思わせます。
けれども、19節のところで「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と言う言葉に続けて「わたしが生きているので」とキリストはおっしゃいます。これはキリストの復活を思い出させる言葉です。つまり、この世は十字架につけられ、墓に葬られたキリストを最後に、もはやキリストを見なくなりますが、復活を通して再びキリストが弟子たちのところへ来てくださるということを約束しているようにも読むことができます。
ただ、注意深くこの個所を読むと、「あなたがたのところへ戻ってくる」とおっしゃったキリストの言葉が、いつ実現するのか、その事が問題の中心ではありません。弟子たちが経験するキリストとの生きた関係こそが話題の中心です。
面白い事に、「あなたがたはわたしを見る」というときにも、また「わたしが生きている」というときにも福音書の記者は、未来形を使って未来のことを語っているのではないということです。少なくともこの福音書を書いているヨハネにとっては、キリストは今もなお生きているお方ですし、また、キリストを信じる自分たちは、イエスを見ている者たちなのです。
ヨハネにとっては、戻ってくるとおっしゃるキリストの言葉は、ただイエス・キリストが復活した時のことだけを述べているのではありません。また、ただ単に遠い未来の出来事を待ち望んでいるというのでもありません。むしろ、キリストの愛のうちに留まり、キリストの命によって生かされ、キリストを身近に感じる喜びこそ、読者に伝えたかったメッセージです。この福音書は未来に期待される救いの完成だけを語っているのではありません。キリストの約束がすでに実現し、その恵みの中に読者を招こうとしているのです。