2015年4月2日(木)迎え入れられる家がある(ヨハネ14:1-7)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人が生きて行く時に、心を平静に保つことができない出来事に直面することの、何と多いことかと思います。それは、神を信じる人にも、信じない人にも襲いかかってくる、避け難い事です。心の平安を保つことができずに、心が揺れ動くような経験をするわたしたちに、聖書はどんな慰めと励ましを与えているのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 14章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
今日の聖書の個所は「心を騒がせるな」とおっしゃるイエス・キリストの言葉から始ります。ちょっと唐突な印象を受けるかもしれませんが、主イエスが「心を騒がせるな」とおっしゃるのには十分な理由がありました。13章からもう一度通して読みなおしてみると、その事が良く分かると思います。弟子たちには、不安の材料がたくさんありました。
まず、主イエスご自身が、ご自分を裏切る者がいるということをお告げになるときに、「心を騒がせ、断言された」とヨハネ福音書は伝えています。もちろん、「心騒がせて」と聖書が語っているのは、イエス・キリストご自身が、不安でうろたえていたというのとは違います。けれども、自分たちの仲間のうちから裏切り者が出ることを告げられた弟子たちには、少なからぬ動揺があったことは否めません。裏切る者が自分たちの仲間から出ると知らされたとき、察しかねた弟子たちは顔を見合わせるほかありませんでした。弟子たちの心がどれほどざわついていたか、目に浮かぶようです。
さらに、キリストは、弟子たちに対して、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」ときっぱりおっしゃいました。そして、それに追い討ちをかけるように、弟子のペトロが三度もキリストを否定するであろう、ということを予告されたのです。
そんなことを立て続けに聴かされた弟子たちが、心を平安にしていられるはずなどありません。そうでなくても、この最後の晩餐を迎える少し前、神殿奉献祭の時には、ユダヤ人たちから石で打ち殺されそうになったキリストを弟子たちは見ています(ヨハネ10:31)。弟子のトマスに至っては、再び都へ向かおうとするキリストの決意を知って、仲間の弟子たちに「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と口走るほどです(ヨハネ11:16)。その上、ベタニアではナルドの香油を注がれたときに、これは自分の葬りのために備えていた香油だ、とイエス・キリストがおっしゃったのですから(ヨハネ12:7)、最後の晩餐でのキリストの言葉に、弟子たちの心が騒がないはずはありません。
動揺と困惑の表情が弟子たちの顔に現れていたのでしょう。その動揺する弟子たちに対して、イエス・キリストは「心を騒がせるな」とおっしゃっています。
どうして心を騒がせる必要がないのでしょうか。二つのことをキリストは語ります。
まず第一に、イエス・キリストが弟子たちのもとを離れて、父なる神のみもとへ去って行かれるのには、積極的な理由があったからです。その理由というのは、イエスを信じる者たちのために、場所を用意しに行くという目的のためでした。弟子たちを置き去りにして、あてどもない旅に出かけられるのではありません。はっきりとした目的、それもキリストご自身のためではなく、キリストの弟子たちのためという目的があったのです。
イエス・キリストはおっしゃいます。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
この世ではわたしたちの手には負いきれないくらいの悲しみや苦しみがあることは否めません。その悲しみや苦しみの向こう側に何も見えなかったとしたら、これほど辛い人生はありません。けれども、主イエスは、わたしたちを迎えてくださると約束してくだいます。行きつく先に、主イエス・キリストご自身が場所を用意して待っていてくださり、わたしたちを迎えてくださるのです。そうであればこそ、心を騒がす必要はないとイエス・キリストはおっしゃいます。しかも、キリストのいらっしゃるその場所に、いつまでも一緒にいることができると、主イエスは約束してくださいます。行きつく終着点で、自分を迎え入てくれる場所が用意されているとは、どんなに幸いなことでしょうか。
この主イエス・キリストの約束は、ただその場に居合わせた弟子たちにだけ約束されたものではないでしょう。キリストを信じるすべての人々のために、キリストは十分な場所を用意して、迎えてくださるのです。
心を騒がせなくてもよい、もう一つの理由を、主イエスは語っています。それは、主イエス・キリストが用意される場所への道を私たちが知っているからです。キリストは、はっきりとおっしゃいます。
「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
その道とは、主イエス・キリストご自身です。それはイエス・キリストご自身がおっしゃる通りです。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
かつてペトロは、こう告白しました。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ6:68)
このキリストの言葉を信じる限り、このお方を通して救いへの道が開かれています。自分自身に失望し、あるいは悲しみに押しつぶされそうになることがあったとしても、ただ一つの救いの道が開かれています。
このキリストの言葉は、主イエスのことを三度否むと予告された、ペトロに対しても語られているのです。どんなに立派な人も、どんなに大きな失敗をした人であっても、また、はかなくこの世を去って行く人であっても、イエス・キリストに道を見出す人には、永遠の住まいが約束されているのです。