2015年3月19日(木)新しい掟(ヨハネ13:31-35)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ときどき、電話相談で、教会の人間関係に躓いて、教会へ行くのが嫌になったと言う悩みを聴くことがあります。互いに愛し合う場所であるはずの教会で、ごたごたとした人間の争いを見てしまうと、本当に失望してしまいます。しかし、その破れを修復するために、自分に何が出来るのかを考えたときに、自分の無力さを感じてしまうことがしばしばあります。破れを修復するどころか、かえって破れをひどくしてしまうということもあるからです。
ただ、思うことは、そういう弱い人間の集団である教会を、主イエス・キリストが愛してくださっていると言う事実です。そのことを忘れてお互いに憎しみあったり非難しあったりしている人間のなんとちっぽけなことかと反省させられてしまいます。
人間の集まりである以上、教会も欠点からまぬかれることは出来ません。しかし、集う一人一人にキリストの愛が注がれていると言うことを信じるときに、この場所に兄弟姉妹とともにとどまろうという希望も与えられるのではないかと思います。
今日お読みする聖書の中に、「互いに愛しあうように」と勧めるイエス・キリストの御言葉が出てきます。ご一緒にその言葉の意味をご一緒に考えてみたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 13章31節〜35節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
前回は、裏切り者のユダが、最後の晩餐の席を立って、夜の世界へと姿を消して行ったところまでを読みました。今日お読みした個所には、外の闇に取り囲まれた部屋の中で、まるでスポットライトを当てられたかのように浮かび上がる主イエス・キリストと弟子たちの姿が印象深く描かれています。
その夜の情景を思い浮かべてみると、こんな様子ではなかったかと思います。
裏切り者のユダが出て行った外の世界は、夜の帳が落ちた闇の世界でした。闇の押しせまる小さな部屋でわずかに灯るともし火に照らされて、小さな弟子の集団が食事の席に着いています。そこに集う弟子たちの気持ちには重たいものがありました。なぜなら、自分たちの主であるイエス・キリストが、心を騒がせながら弟子の中の一人が自分を裏切ると予告したからです。キリストのおっしゃる言葉の意味もよく飲み込めないまま、時間が過ぎて行きます。弟子たちの心は、外の暗闇に押しつぶされてしまうくらい、沈んだ気持ちであったかもしれません。
そのとき、イエス・キリストはおっしゃいました。
「今や、人の子は栄光を受けた。」
闇の中でぱっと輝く光のように、イエス・キリストの言葉が弟子たちを照らします。弟子たちは決して闇の中にいるのではなく、主の栄光の中に包まれていると言うことを思い出させる言葉です。
しかし、その明るい言葉と同時に、まさにこの世を去って、弟子たちと別れなければならないときが来ていることを主イエスは弟子たちに告げます。
「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」
かつて、主イエス・キリストがユダヤ人たちに同じことを語ったとき、わたしの元へユダヤ人たちが来ることが出来ないのは、彼らが自分の罪のうちに死ぬからだとおっしゃいました。しかし、今、同じ言葉を弟子たちにかけますが、それは、決して彼らが罪の暗闇のうちで死んでしまうからではありません。闇の中に希望もなく捨て置かれるのではなく、主の栄光で包まれた弟子たちを残して、キリストは父のもとへとお帰りになるのです。
この主の栄光に包まれた弟子たちに、主イエスはひとつの使命をお与えになりました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
この新しい掟は、イエス・キリストが弟子たちを愛されたということが大きな前提になっています。自分が自分を愛する愛が土台ではありません。キリストの愛がこの新しい掟の土台です。
最後の晩餐が始まる前に、ヨハネ福音書はこう記しています。
「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。
このイエスの愛にとどまる者が、新しい掟を実践することが出来るのです。主イエス・キリストが弟子たちを愛されたということを抜きにして、この掟を守ることは出来ません。互いに愛しあうその愛は、主イエス・キリストがわたしたちを愛しとおされたその愛に基づく愛だからです。イエス・キリストのこの愛は、十字架を通してもっとも鮮やかに示されます。このキリストの愛は、わたしに注がれていると同時に、このキリストの愛のうちにとどまっているすべての者に注がれています。そうであればこそ、主の愛された者一人一人を互いに愛しあうことが求められているのです。
主イエス・キリストは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とおっしゃいました。求められている新しい掟の実践は、そのことを通して自分たちが主イエスに愛された集団であることを証しします。キリストの愛に留まって、その愛をもって互いに仕えあうときにこそ、キリストに属する者であることが、もっとも鮮明に表れるのです。