2015年2月19日(木)最後まで弟子を愛されるイエス(ヨハネ13:1-5)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょうからヨハネによる福音書の13章に入ります。ここからいわゆるキリストの受難物語と呼ばれる個所が始まります。
弟子たちと取られた最後の晩餐の記事から始まって、やがてキリストが逮捕され、不当な裁判の結果、十字架刑に処せられる様子が描かれます。そして死んで葬られたはずのイエス・キリストが、墓の中からよみがえって、再び弟子たちにその姿をあらわしたという、復活の喜びで福音書が閉じられます。この一連の出来事は、福音書のクライマックスといってもよいと思います。
ところで、ヨハネによる福音書は、他の福音書と比べて、このキリストの受難と復活の記事に割り当てる分量が、格段に大きいのがその特徴です。特に最後の晩餐の席上でなされたイエス・キリストのお別れの説教には、かなりの分量が割かれています。これは他の福音書にはない特徴です。今回からしばらくの間、最後の晩餐の席上でのことを学んで行きたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 13章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
今日の個所では、いよいよイエスが十字架にかけられる前の晩の出来事が描かれています。ヨハネ福音書によれば、それはユダヤ人のお祭りである過越祭の前の晩の出来事であったと言われています。他の福音書ではその食事が過越祭の食事として描かれていますので、昔からヨハネ福音書と他の福音書との間で時間の設定にズレがあることが知られていました。ただ、どの福音書もイエス・キリストが十字架にかけられたのは金曜日の出来事として描かれていますから、問題は、最後の晩餐が過越祭の日の出来事であったのか、それとも十字架の日が過越の小羊を屠る日だったのかと言うことになると思います。ヨハネ福音書では、最初からイエス・キリストを「世の罪を取り除く神の小羊」として紹介していますから、十字架のキリストを過越の時に屠られる小羊として意味付けしていると考えることはできるでしょう。
さて、イエス・キリストは、この過越祭を前日に控えて、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。この世から父のもとに移ると言うのは、十字架と復活を通してなされる事柄です。つまり、過越祭を前日に控えて、ご自分の十字架と復活の時が来たことをはっきりと意識されたということなのです。
新約聖書が証しするイエス・キリストは、十字架の苦しみと復活とを思いがけない出来事としてではなく、神から与えられた使命として、どうしても通らなければならない道として受け止めています。特にヨハネ福音書のイエス・キリストは、このことが起こるご自分の「時」をいつも強く意識しながら地上での歩みを続けて来られました。
そのイエス・キリストが十字架と復活を通して父なる神のもとへとお戻りになる時が来たことを悟ったとき、世にいる弟子たちを愛し、この上なく愛されたのです。
ここには二度も「愛する」という言葉が繰り返されています。イエス・キリストの地上でのご生涯は、弟子たちに対する愛に貫かれたご生涯でした。この時に至るまで、ずっと弟子たちとともに歩まれ、弟子たちをこよなく愛されたキリストでした。そして自分から進んで命をささげる、その時が来たとき、イエス・キリストの十字架は「この上なく愛し抜かれた」愛の御業として描かれようとしています。キリスト教会ではイエス・キリストの十字架に神の愛を見出します。それは、他でもなくイエス・キリストご自身が十字架の死に至るまでわたしたちを愛していてくださっているからです。
ヨハネはそのイエスの愛を「この上なく愛し抜かれた」愛であると表現します。それは最後まで続く愛であり、完全な愛ということが出来ると思います。
罪というものが、神の造られたものを破壊することだとするなら、愛とは破壊されたものを回復することだといってもよいでしょう。イエス・キリストの愛はわたしたちを命へと回復する愛です。命へと回復するまでにわたしたちを愛してくださっているのです。そのためにご自分の命さえも差し出されるほどに、完全な愛でわたしたちを愛しとおしてくださいます。
このイエスの完全な愛について述べた直後に、ヨハネ福音書は裏切り者のユダについて言及しています。
「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」
罪の破壊的な力と、命へと回復させるイエス・キリストの愛とが対照的に描かれます。なぜ、この場所に裏切り者のユダを登場させたのでしょうか。この弟子だけはイエスの愛から漏れていたということを言いたかったのでしょうか。それともこの裏切り者のユダも含めて、イエスは弟子たちへの愛を貫かれたと言いたいのでしょうか。
この記事の直後に続く記事には、イエスが、弟子たち一人一人の足を洗ったと書かれています。この足を洗うということが弟子たちに対する愛を示す業であるとすれば、イエスを裏切ろうとするユダをも含めた弟子たちを愛するイエスの姿が描かれているということになります。
イエスを裏切る思いが入りこんだユダに対してさえも、キリストの愛が注がれている、そのことを思い出させます。
そもそもイエスの弟子たちは、キリストから愛されるのに十分な価値があったのでしょうか。ルカによる福音書は同じ最後の晩餐の場面で、誰が一番偉いかを言い争っている弟子たちの姿を描いています。
それに対して、イエス・キリストは仕えられる支配者としてではなく、仕える僕としてご自分がこの世に来たことを告げています。ヨハネ福音書の足を洗うイエス・キリストの姿もまったく同じです。イエス・キリストが足を洗うその弟子たちは、誰が偉いかを争う弟子たちであり、イエス・キリストの十字架の意味を悟り得ない弟子たちです。そのような弟子たちをさえ、愛し通されたのです。神の愛とは不完全で価値のない者にさえ注がれています。そうだからこそ、神の愛は最後まで完全な愛なのです。