2015年1月22日(木)キリストの時と異邦人の救い(ヨハネ12:20-26)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教といえば、ヨーロッパの宗教というイメージが強いと思います。確かに、キリスト教会2000年の歴史のうち、大半はヨーロッパでの進展の歴史しでした。またヨーロッパの文化と深くかかわってきたために、キリスト教といえば西洋のイメージになってしまいがちです。特に、キリスト教を最初に日本にもたらしたのは、文化のまったく異なった西洋人でしたから、日本人にとってはいっそう西洋の宗教というイメージが強いのだと思います。明治時代になってから、日本に次々と訪れる宣教師たちも、欧米人がほとんどでしたから、ヨーロッパの宗教というイメージはほとんど定着してしまっているように思われます。

 しかし、そもそものキリスト教の歴史をたどって見ると、オリエントの小さな国で始った運動でした。使徒言行録の記事によれば、ヨーロッパにキリスト教がもたらされたのは、初代キリスト教会の指導者の一人であったパウロが、二回目の伝道旅行に出かけたときに、思いがけないきっかけで始まりました。

 もっとも、パウロが行なった伝道よりも一足先に、キリスト教のことは人伝えに各地に広まっていたのではないかと想像しています。と言うのは、既に早い時期からユダヤ人たちは地中海を囲む各地に散らばって生活をしていたからです。祭のときにエルサレムへ集まったユダヤ人によって、イエス・キリストのことは外国にも噂が広まっていたはずです。

 さて、きょうお読みする個所には、過越祭に集まっていた人々の中にいたギリシア人のことが取り上げられます。その人たちによっても、キリスト教は早い時期からヨーロッパにもたらされていたのかもしれません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 12章20節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 ここに登場するギリシア人というのは、おそらく地方の会堂で既にユダヤ教に改宗していた人たちであるか、あるいは、ユダヤ教に理解を示し尊敬を払っていた、いわゆる「神を恐れる人たち」であったと思われます。そのギリシア人たちが、フィリポやアンデレたちに頼んで、イエス・キリストとの面会を求めてきました。フィリポは異邦人たちが多く住むベツサイダの出身でしたから、日ごろからギリシア人との接触があったのかもしれません。フィリポにしろ、アンデレにしろ、ギリシア風の名前ですから、そういうこともあって、彼らに仲介役を頼んできたのかもしれません。

 さて、異邦人であるギリシア人がイエスのもとへやってきたというのは、このヨハネ福音書にとってはとても大きな意味のある出来事でした。

 先週学んだ、ロバの子に乗ってエルサレムへ入城されるイエス・キリストの姿は、旧約聖書、ゼカリア書の預言の言葉そのものでした。そのゼカリア書の最後の章に描かれる救いの世界には、諸国の人々が聖書の神、主の祭りにやってくる様子が描かれています。

 ヨハネ福音書の記者は、ゼカリヤの預言の通りにエルサレムへ入城されたイエスの姿を描きましたが、イエスのもとへ訪ねて来るギリシア人の姿にも、預言者ゼカリアの言葉の成就を見たのかもしれません。

 さて、イエス・キリストは、ユダヤ人以外の人々のためにもご自分が来られたということを以前おっしゃっていました。10章16節で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」こうおっしゃっていました。

 そのおっしゃった言葉の通り、ユダヤ人社会という囲いの外にいる異邦人たちも救い主の声を聞き分けてやってきたのです。今日の場面で出てくるギリシア人の記事は、今や、救いの業が全世界へと広がって行こうとする前触れ的な出来事と言ったらよいと思います。

 さて、イエス・キリストは、ご自分のところへギリシア人たちが来るのをご覧になって「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃっています。あたかも、ギリシア人がやってきたということと「人の子が栄光を受ける時」とが関係しているような言い方です。

 ヨハネ福音書の中でキリストは、今まで何度も繰り返し、ご自分の時がまだ来ていないということを語ってきました。しかし今や、その「時」が到来したということをイエス・キリストはお語りになります。その「人の子が栄光を受ける時」というのは、そのすぐ後でイエス・キリストがおっしゃっているように、一粒の麦が地に落ちて死に、そのことを通して、豊かな実が結ぶ事を指してます。キリストのおっしゃる栄光は、最も栄光とは程遠いと思われる死を通して与えられるということです。しかし、キリストの死はすべてを虚しくしてしまう死ではありません。かえって多くの実をもたらす死であるとおっしゃいます。

 わたしは何度か自分の知らない土地に行ったことがありますが、どんなに自分が知らない土地で、そこに暮らしている人とも一度も会った事がないような外国の国に行っても、キリスト教会の礼拝にあずかる時に、不思議な思いになることがあります。その不思議な思いというのは、イエス・キリストを信じる者たちの群れが一つであるという一体感と、自分にとってはこんなにも遠くの世界にキリストの実が豊かに確かに実っているという驚きです。そして、この事が、ほかならないキリストの死と復活を通してもたらされた結果であるということを思うときに、キリストのあの言葉が思い出されます。

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」