2015年1月15日(木)柔和な勝利の王(ヨハネ12:12-19)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスという人が書いた『ユダヤ戦記』という書物の中には、毎年270万人近い人が過越祭に集まっていたと記されています。もちろん、エルサレムという小さな町にそれだけの人数が入りきるはずはありません。町の広さから計算して、どんなに大勢の人が集まったとしても、18万人ぐらいが限度だったろうといわれています。仮にそうだとしても、膨大な数の人々です。それに加えて、犠牲として捧げられる過越の小羊がいますから、どれほどエルサレムの町の中はごった返していたことでしょうか。
また一つの抑圧された民族が小さな城壁都市エルサレムに結集するわけですから、民族的な興奮と熱気が漂う祭りであったことは容易に想像されます。エルサレム神殿の北西部にはアントニアの塔とよばれる要害がありましたが、そこにはエルサレム監視のためにローマ軍が常駐していました。特に過越祭のときには、ローマの総督もカイザリアの官邸からエルサレムの官邸に移るほど、警備には気を遣ったほどでした。
いつもでさえ、一つ間違えば、暴動でも起こりかねないような熱狂的な祭りでしたが、今、わたしたちが学ぼうとしている聖書の個所に出てくる、この年の過越祭は、ことさら特別な事情がありました。それは、一方ではラザロをよみがえらせたことで、イエスに従って行く人の数が増え、他方では、そうした事態を好ましくないと思うユダヤ社会の指導者たちの策略があったからです。普段の年でさえ熱くなりがちなこの祭りのとき、その年には、それに加えてイエス・キリストをめぐる期待と不安との入り混じった複雑な思いが人々の心の中にありました。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 12章12〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
キリスト教会では、キリストが十字架におかかりになる週を、受難週と呼んでいますが、その受難週が始まる日曜日のことを「棕梠の日曜日」と呼んでいます。それは、きょうの個所に出てきたように、エルサレムにやってこられたイエス・キリストを、人々がナツメヤシ、つまり棕梠の枝を持って出迎えたことから、「棕梠の日曜日」と呼ばれるようになりました。
イエス・キリストの時代からおよそ140年ほど前、エルサレムの要塞がシリア軍から奪い返されたとき、歓喜した人々が棕梠の枝を手にして賛美の歌を歌ったことがユダヤの物語に記されています(1マカベア記13:51)。今、棕梠の枝を持ってイエスを迎える人々は、心の中で、きっと昔の勝利にわいた時代の出来事を思い浮かべていたに違いありません。
棕梠を手にした群集たちは口々に叫んでいます。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」
勝利の凱旋をする王様でも迎えるかのように、人々の熱狂ぶりは収まりようもありません。ユダヤ人の指導者たちが漏らしたあきらめの言葉が印象的です。
「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」
しかし、そこまでしてイエスを王として迎える民衆に対して、ヨハネ福音書記者のコメントは、あくまでも冷静な視点からなされています。
「群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」
良い意味でも、悪い意味でも、イエスを迎える民衆の期待はラザロを死者の中から甦らせたイエス・キリストの奇跡と結びついていました。
そのように一方では熱狂的に燃え盛る民衆たちの歓喜の声があり、他方ではそうした民衆たちに呆れかえる指導者たちの声がささやかれる中で、ヨハネ福音書の記者は、この出来事に秘められた意味を、旧約聖書の預言を引用して解き明かします。
引用される個所は旧約聖書ゼカリヤ書の9章9節です。
「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」
ヨハネ福音書の記者は、エルサレムに入城するイエス・キリストが、どうしてロバの子の背中に乗ってこられたのか、そのときの弟子たちにはその意味が分からなかったと証言しています。誰一人として、キリストのとった行動が、ゼカリヤ書の預言と一致していることに思い至らなかったというのです。キリストの十字架と復活の後になって、はじめてその意味を悟ったとあります。
ゼカリヤ書の中で描かれる王の姿はとても不思議な姿です。何故なら、勝利をおさめて入城する王の姿は、軍馬に乗ってやってくる勇ましい王の姿ではないからです。か弱いロバに乗ってくる、勝利の王とは思えない姿です。このゼカリヤの預言が描く王の姿は、エルサレムから軍馬や戦いの武器をすべて除き去る、柔和でへりくだった王の姿なのです。
ロバの子に乗ってやって来られたイエス・キリストが人々にお示しになりたかったご自分の姿は、まさにゼカリヤ書が語ろうとしていた、柔和な救い主の姿でした。
今も昔も、人間は力強いもの、大きなものに身を寄せたがるものです。あちらでも、こちらでも民族戦争が絶えない時代のさなかにあって、今なお強力な国、偉大な指導者を人々は求めつづけています。罪深い人間とは、自分の望みを実現させるために、力に頼るおろかな存在です。
けれども、ほんとうに力のある神がお遣わしになった救い主、王であるイエス・キリストは、暴力ではなく、柔和さ、謙遜さをもってわたしたちのうちにまことの平和を打ち立ててくださいます。