2015年1月8日(木)キリストを葬る準備(ヨハネ12:1-11)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
地上を歩まれたキリストを見た、という人はもうどこにもいません。新約聖書が書かれた時代でさえ、キリストを見たことがない人たちの方が多いくらいでした(1ペトロ1:8)。しかし、福音書の記事を通して、わたしたちは、救い主であるキリストと出会うことができます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 12章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
過越祭の6日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。
先週は、イエスの敵対者である大祭司カイアファが、口にした言葉が、奇しくも奥深い神の救いのご計画を預言するものとなったと言う記事を学びました。きょう学ぼうとしている個所では、一人の女性のなした行為が、その人の思いを超えて、図らずもイエス・キリストを葬る準備となったという出来事です。
過ぎ越しの祭りの6日前に、イエス・キリストは再びベタニア村を訪れます。過ぎ越しの祭りは、かつて旧約聖書の時代に、奴隷の国エジプトから、ユダヤ民族を解放した神の救いの業を記念する祭りでした。この祭りには当時10万人以上の人々が、あらゆる場所からエルサレム目指してやってきたと言われています。どれほど熱気に満ちたお祭りであったか容易に想像できると思います。それだけの人数が集まる祭りでしたから、イエス・キリスト一行が、人ごみに紛れてエルサレムに上ることも可能であったかもしれません。しかし、最高法院であるサンヘドリンでは、イエスを逮捕する取り決めが既に下されていましたから、そう簡単に人ごみに紛れ込むこともできなかったでしょう。実際、そのような取り決めがなされてから、イエス・キリストは公然とユダヤ人たちの間を歩かなくなりました(ヨハネ11:54)。そう考えると、イエス・キリストがエルサレムを目指して、ベタニアにまでやってきたということは、人間的に考えれば、かなり大胆な行動です。
さて、ベタニアの村では、先にキリストによって甦らされたラザロも一緒にいて、キリストと共に夕食の席についていました。その食事の席での出来事、ラザロの姉妹マルタが給仕に忙しくしているときに、もう一人の姉妹マリアが高価な香油ナルドをイエスの足に塗って、自分の髪でそれを拭ったというのです。ヨハネ福音書はそのときの様子を記して、「家は香油の香りでいっぱいになった」と、とても印象的に表現しています。
その日の食事は親しい者たちが集まる、和やかな食事の席であったと思われます。けれども、一方ではキリストを殺してしまおうとする者たちの動きが、公然と告げ知らされていたときでもあったわけですから、この食事の席にはどこか緊張感がいつも漂っていたと想像します。そういう中に、ナルドの香油の香りが広がって部屋を満たしたのですから、その心地よい香りに、一瞬でも緊張した気持ちが解きほぐされる思いがしたことでしょう。
けれども、そこに居合わせた弟子の一人、ユダには、ナルドの芳しい香りも、無計画な浪費としか映りませんでした。なぜならナルドの香油は、300デナリオンでも売れる高価なものだったからです。300デナリオンというのは300日分の日雇い労働の賃金に相当する額ですから、貧しい人々に施した方がよほど役に立つお金の使い方と言えるかもしれません。ユダはマリヤのしたことを非難して言いました。
「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
こう意見を述べたユダでしたが、ヨハネによる福音書は、ユダの心の奥底にある思いを暴露します。それは、本当に貧しい人たちのことを思って言っているのではなく、会計係として預かったお金をごまかしていたからだというのです。
不正を働く人、自分の悪い行いを隠し通そうとする人には、他の人たちの行いを正しく評価するという感覚さえもなくなっています。先週学んだ最高法院の人たちが自分たちの身の安全を図るために、一人の人間を犠牲にしてしまおうとする身勝手な決定をしてしまったように、ここでも罪深い人間の身勝手さが見事に描かれています。そういう、どろどろとした人間の罪の渦巻く世界の中で、その罪の世界を救おうと、進んで立ち向かわれるイエス・キリストの姿がいっそう浮き彫りにされています。
イエス・キリストご自身にとって、マリアのしたことは、決して無駄な行いではありませんでした。イエスは、マリアのしたことを受け入れて、こうおっしゃいます。
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」
マリアにとって、イエスの足に香油を塗ったことが、本当に葬りの準備をするためであったのかどうか、おそらく本人にもそんなつもりはなかったでしょう。あるいは、これだけ危険の迫っている状況でしたから、ひょっとしたら、ここで一緒に食事をするのは最後かもしれない、という思いぐらいはあったかもしれません。ただ、間違いなく言えることは、マリアにはイエス・キリストに対する心からの尊敬の気持ちがあったということです。
このマリアの行いに意味を与えていらっしゃるのは、イエス・キリストご自身です。そのようなマリアの行いは、イエス・キリストにとって、ご自分の葬りのための準備と受け取られたのでした。マリアがどういう思いで香油を注いだかと言うこと以上に、イエス・キリストがその香油注ぎをどう理解され、受け入れられたのか、そちらの方こそ着目すべき点です。
ここには身近に迫った死を覚悟する、イエス・キリストの気持ちが表現されています。それは、この福音書で何度も述べられてきた、命を与えるための死です。決してユダヤ人たちの陰謀によって暴力的にもたらされる死ではありません。イエス・キリストが自分から進んでささげる命です。奇しくもマリアのしたことは、そのキリストを葬る備えとなりました。このマリアのなしたことを通して、イエス・キリストの尊い死の意味を深く思い巡らすようにと、神はわたしたちを招いておられます。