2015年1月1日(木)十字架の意味と神の深い計画(ヨハネ11:45-57)

 新しい年を迎えていかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストがどうして十字架につけられてしまったのか、その説明はいろいろできるかもしれません。しかし、ヨハネによる福音書を読むときに、人知を超えたキリストの十字架の死の計り知れない不思議さを感じます。このキリストの十字架の死について考えるということは、救いの歴史を導かれる神の思慮深いお働きを、聖書の中にいつも読み取って行くことだと思います。

 歴史的な出来事を表面的にだけ見るとすれば、イエス・キリストの死は、宗教的思想家に対する単なる暗殺事件と言うことになってしまいます。実際、イエス・キリストの生涯を描く福音書の記事には、イエスとその当時のユダヤ人たちの宗教的な対立が鋭く描かれています。この対立が頂点を迎えたとき、人々はナザレのイエスに暴力的な手を下したというのが、歴史的事件の全貌かもしれません。しかし、福音書が描こうとしているのは、そうした表面的な事件ではありません。そうではなく、その背後にある、神の救いのご計画の不思議さと確かさです。ヨハネによる福音書をほんとうに味わい理解するということは、目には見えない神のこのご計画を、キリストの十字架のうちに見ることであると思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 11章45節〜57節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

 きょうお読みした個所には、福音書記者によって次のような不穏な言葉が記録されています。

 「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(ヨハネ11:53)

 実は、ヨハネ福音書の中には、これまでにも、イエスを殺そうとする人々のことが描かれてきました。すでに、この福音書の初めの方、5章18節で、人々がイエスをますます殺そうとしたことが告げられています。それはイエス・キリストが安息日に病人をお癒しになったと言うばかりでなく、神をご自分の父と呼んだからであったと聖書は記しています。7章25節では、仮庵祭のためにエルサレムに姿をあらわしたイエスを見て、群集たちが、「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。」と驚いた様子が描かれています。さらに、十章の後半のところでは、神殿奉献記念祭のときにも、人々は石を手にとって、イエスを殺そうとしたことが記されています。

 このようにヨハネ福音書が告げるところによれば、イエス・キリストを殺してしまおうとする思いは、敵対する人々の中に最初の頃からずっとあったということが言えると思います。ただ、きょうの個所では、今までと違って、衝動的にイエス・キリストを殺してしまおうと言うのではありません。組織的・計画的にイエスを殺してしまおうと企てたと言うのです。というのは、ユダヤの最高法院であるサンヘドリンに議員たちが招集されて、この問題について議論された様子が記されているからです。もちろん、表だって何かを決議したというのではありません。ただ、時の大祭司カイアファの発言が、集まった人々に対して大きな影響を与えたことは疑いえません。

 では、敵対する人々が、なぜ、わざわざ議会を招集したのか、その理由がきょうの個所にははっきりと記されています。それは二つの理由からでした。

 その一つは、民衆の心がこれ以上イエスに傾くことを恐れたためでした。直前の個所で学んだ通り、死んだはずのラザロをキリストがよみがえらせたことは、決定的でした。それを目撃した多くのユダヤ人たちが、イエスを信じたからです。これ以上、キリストに従う者たちが増え続ければ、自分たちの宗教的な権威が失墜しかねません。

 第二の理由は、もっと政治的な理由からでした。それは、民衆がイエスの周りにこれ以上集まれば、ローマ人たちが黙ってはいなくなるという政治的な懸念でした。イエスの運動がローマに対する抵抗運動とみなされて、ローマの取り締まりの対象になりかねない。そうすれば、自分たちの宗教活動も存続が難しくなるし、自分たちの民族の存在さえ危うくなってしまうかもしれない、そういう思いが敵対者の気持ちを動かして、イエス・キリストを亡き者にしようとして行ったのでした。

 さて、ヨハネ福音書が語ろうとしているのは、そうした人間の思いだけではありません。人間の勝手な思いとしか見えないような出来事の背後に、神のご計画の確かさ不思議さを見ているのです。

 最高法院を召集した大祭司のカイアファは、議員たちに対して「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と意見を述べました。この大祭司カイアファの言葉のすぐ後で、ヨハネ福音書の記者はこう述べます。

 「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」

 ヨハネ福音書によれば、イエス・キリストの死はただの暴力的な殺害事件でなく、特別な意味を持った死だったのです。そのことをヨハネ福音書は最初から繰り返し繰り返し読者たちに語り聞かせてきました。それは、奪われた命ではなく、進んで捨てた命であり、それを通して、人を生かす命だったのです。それはまた、身代わりの死であり、教会を一つに集めるための死であったのでした。

 ヨハネ福音書はイエス・キリストの死に秘められた神の深いご計画を私たちに語りかけます。歴史を導くこの神の働きのうちにこそ、わたしたちの救いの確かさがあるのです。