2014年12月18日(木)涙を流されたイエス(ヨハネ11:28-37)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書の中で一番短い聖書のことばはどこにあるか、というクイズを聞いたとがあります。実はきょうお読みしようとしているヨハネ福音書の11章35節こそ、聖書の中で一番短い聖書の言葉である言われています。「イエスは涙を流された」。原文のギリシア語で三単語、英語の翻訳ではわずかに二単語です。
だれでもあの場に居合わせたら、涙の一つや二つこぼすでしょう。けれども、主イエスの流された涙には、ただ、親しい友人をなくしたという悲しみ以上のものがあるように感じられます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 11章28節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
先週はお姉さんのマルタとイエス・キリストとの間で交わされた会話から学びました。きょうの場面は、そのすぐ後に続くお話です。姉のマルタから主イエスがお呼びだと聞いて、妹のマリアも、すぐに立ち上がってキリストのもとへと足を運びます。
何気ない描写ですが、家から出てこないマリアを気にかけて、声をかけようとしてしてくださるイエス・キリストの優しさを感じます。それはまた、マリアに対するマルタの気配りでもあるように感じます。少なくともマルタ自身は、キリストとの会話を通して、悲しみを和らげていただくことができました。その慰めを妹にも分け与えたい、そういう思いがマルタにはあったことでしょう。
妹のマリアも、姉のマルタと同じように、主イエスの姿を見るなり、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と胸のうちの思いをキリストにぶつけます。
愛する人の死に直面するとき、過去を振り返っては、してあげたくても出来なかったことについて、わたしたちは悔しい思いをします。「あの時もっとこうすればよかった」と過去を振り返って嘆いたところで、失われた者が戻ってくるわけではありません。そんなことは、百も承知していても、それでも過去を振り返ることしかできないのが、わたしたちであるかもしれません。
あるいは、過去を振り返ることで、目の前にある「死」という受け入れがたい現実を、少しでも心に受け止めようと努力しているのかもしれません。どうすることもできない事実だということを、人はすぐに受け止めることは出来ません。心の中で何度も何度も過去にさかのぼって、目の前に起こった現実を繰り返すことで、これが受け入れなければならない現実だということを受け止めることが出来るのでしょう。
そうして、泣き崩れるマリアと、マリアの泣く姿に涙を誘われる友人たちを見て、イエス・キリストは「心に憤りを覚え」られたと聖書は記しています。先ほどご紹介した「イエスは涙を流された」という言葉が、その後に続きます。
はたして、イエス・キリストは何に憤りを感じられ、何に対して涙を流されたのでしょうか。
「もしもキリストがあの場に居合わせてくださったなら、兄弟ラザロは死にはしなかった」と言って涙ぐむマリアやユダヤ人たちの不信仰を嘆かれ、憤られたのでしょうか。あるいは「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」とささやく人たちに腹を立てられたということでしょうか。それでは、どうしてイエスが涙を流されたのか説明がつきません。ただ単に人々の不信仰を嘆くと言うだけなら、他の機会にもあったことです。それだけでイエスは涙を流されたことはありません。
あるいは、ただ単に、みんなが泣き悲しんでいる姿を見て、思わずもらい泣きしてしまったと言うことでしょうか。それなら、なぜ、イエスが憤られたということを記すのでしょうか。同情して涙を流すことと、心に憤りの感情を抱くこととは全然違うことでしょう。
このイエス・キリストの憤りや涙の中に、もっと深いものを見ることが出来ると思います。それは、「死」というものに対するイエス・キリストの深い洞察から来るものであると思います。
そもそも、聖書が教える「死」とは、本来決して自然な出来事ではありません。死は神がお造りになった命に対する挑戦であり、神の創造物に対する強い否定だからです。聖書によれば、死は人間の罪の結果もたらされた異常な状態なのです。
この本来あってはならない事態に、どうにも手をつけられずにいる人間の弱さ、ただただ、嘆くことしかできない人間のもどかしさに、イエス・キリストは深い嘆きと憤りとを覚えていらっしゃるのではないでしょうか。キリストにとって、死が悲しみであるのは、ただ単に愛する者との離別だからではありません。そうではなく、それが、神がお造りになった世界に対する反逆的な事態だからなのです。そのような状態に人間がいつまでも縛られていることに対して、キリストは深い悲しみと憤りとを覚えていらっしゃるのです。
この場面には、人間の罪をご自分の身に背負って十字架におかかりになる、イエス・キリストの姿を見て取ることが出来ます。このキリストの深い憤りと悲しみにこそ、私たちを罪と死の世界から解放するために、ご自身を十字架に献げられたキリストの愛が表明されているのです。
イエス・キリストの流された涙は、決して涙もろい感情の表れではありません。むしろ、私たちに対するこの上ない愛の決意を物語っているのです。このあと、キリストが歩まれた道は、十字架への旅の道でした。そこまで深く死の問題を洞察されたイエス・キリストの涙であり、憤りであるからこそ、非常な重みをもって私たちに迫ってきます。このイエスの涙と憤りの意味をしっかりと受け止めることができる人こそ、自分自身の救いをこのお方の御手に委ねることができる人です。