2014年12月11日(木)復活であり、命であるキリスト(ヨハネ11:17-27)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
死を嫌い、死を克服したいと願うのは、人間の素朴な思いです。というのも、死後の世界のことは、だれも知らないという不安があるからです。特に苦しみながら迎える死には、だれもが恐怖を感じるものです。そうでない死であったとしても、愛する者たちと会うことができないという悲しさがつきまといます。特にほかの人よりもずっと若くしてこの世を去らなければならない時には、死ほど無念を感じることはありません。
しかし、また反対に、苦しみや悲しみの絶えないこの地上での生涯に、いつかは死が訪れるということは、ある種の安堵感を与えるというのも本当です。罪と悲惨さが満ちた世界に、終わることなく永遠に生き続けなければならないとしたら、それこそ苦痛です。
しかし、理想的な願いを言えば、永遠に続く幸福の中に、愛する者たちと共に生き続けること、このことこそ人間が心から願っていることではないでしょうか。聖書が教える復活と永遠の命は、正にそのことをもたらす希望です。
きょう取り上げる個所には、愛する兄弟を病で失った二人の姉妹が登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 11章17節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、15スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
ラザロが亡くなって墓に葬られ、既に四日間も日が経っていた、というところからきょうの話は始まります。先週学んだとおり、ラザロが病気であるという知らせは、既にイエス・キリストの耳に入っていました。ラザロの二人の姉妹たちが人をやって、そのことを伝えていたからです。この二人の姉妹たちは、きっと、すぐにでもイエス・キリストがやって来て、病気のラザロを癒していただけるものと思っていたに違いありません。
けれども、イエス・キリストはいっこうに姿をあらわしません。そうこうしているうちに、とうとう愛する兄ラザロは息を引き取ってしまったのです。
チャンスがあれば癒していただけたかもしれない、そういう悔しい思いが姉のマルタにはあったかもしれません。たくさんの友人たちもやって来て、残された二人の姉妹たちを慰めようとしています。場面全体に重苦しい悲しみが漂っています。四日も時が経過していれば、もうどうにもならないと言う気持ちが、誰の心にもあったことでしょう。どんなに親しい友人たちの訪問も、この死の悲しみを和らげることは出来ません。それどころか、愛するラザロはもういないのだという現実を、いやがうえにも思い起こさせ、悲しみを増すばかりでした。
さて、そこへ主イエスがやってきたという知らせが聞えてきます。姉のマルタが家の中からイエスを迎えに出てきます。マルタの口から開口一番に出た言葉は、こうでした。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」
この言葉は、兄弟ラザロの死を無念に思う気持ちを表現した言葉であるようにも聞こえます。
「もし、〜なら」という思いは、死に直面する家族にとって、いつも心の中をよぎる言葉です。「もし、もう少し良くしてあげることが出来たら」「もし、もっと早く気がついていれば」、こうしたとりとめもない思いがぐるぐると頭の中を巡ります。それは、誰にとっても、死と言うことが、すぐに受け止めることのできない、大きな悲しみだからです。
しかし、マルタの言葉は、ただ死を無念に思い、悔しがっているというのでもありません。主イエスがいてくださったなら、必ず助けていただくことができた、という、イエス・キリストに対する信頼の表明でもあります。
マルタの言葉には続きがありました。
「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
マルタは兄弟ラザロの死を目の当たりに見ながらも、それでも、キリストへの信頼を失っていません。
では、ここでマルタは一体何をキリストに望んでいたのでしょうか。兄弟が今すぐにでもよみがえることを期待していたのでしょうか。その直後に続くキリストとの会話の中で、マルタ自身が、そんなことを期待もしていないことが明らかになります。キリストが、兄弟ラザロの「復活」について語るときにも、マルタの頭の中では、世の終わりの復活のことしか思い浮かべることが出来ません。
けれども、キリストが語る言葉に、マルタはハッとした思いがします。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
キリストがお語りになる命とは、遠い将来に約束されている命ではないのです。今、ここで「わたしは復活であり、命である。」とお語りになるキリストの力を信じることが求められているのです。そのお方のお与え下さる命に、今生かされていることを感じる信仰が求められています。
わたしたちを本当に慰めることが出来るのは、ただ、遠い将来に起こる復活の希望ということだけではありません。一人一人が命の君であるイエス・キリストによって、闇と死の支配から、光と命の支配に移されているという信仰です。この目に見えない現実を語るキリストの言葉こそ、私たちを励まし、勇気を与えてくださいます。主イエス・キリストは一人一人に「あなたはこのことを信じるか」と問い掛けておられます。