2014年12月4日(木)ラザロの死(ヨハネ11:1-16)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「死」という問題は、人間にとって大きな問題の一つです。「死」とは一般的には「生活機能が不可逆的に失われてしまうこと」を言います。ほとんどの人にとって、死とは、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。しかし、聖書は、人間の死に関して、ただ生活機能が不可逆的に失われてしまったということ以上のことを教えています。それは、死は罪の支払う報酬であるという真理です。つまり、人間の死は、人間の罪と堕落と切り離すことのできないということです。言いかえれば、死は人間にとって本来正常な姿ではなく、異常な姿であるということです。
しかし、死がすべての人を支配する世界しか知らない私たちにとっては、むしろ死をもって最後を迎えることが本来の人間の姿と思われてしまっています。
これから取り上げるヨハネによる福音書の11章を理解するためには、こうした聖書の教える死生観を念頭において読む必要があります。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 11章1節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
きょうから数回に分けて学ぶヨハネ福音書の11章は、今までこの福音書の中で何度となくでてきた「しるし」の中で、最後のしるしとなります。それは最後というばかりではなく、死の力を打ち破るという点で、最大のしるしということができます。
きょうは、そのしるしが行われるきっかけとなった、ラザロの病と死について取り上げます。
11章はまず、ラザロについて、ベタニア村の出身で、その姉妹はマリアとマルタであると紹介します。この二人の姉妹の名前が出てくるのは、他にルカによる福音書10章がありますが、それ以外のところには登場しない人物です。マリアについては、「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と補足を加えています。その逸話については12章で詳しく取り上げられますが、今、そのマリアとラザロとがあらかじめ関係付けられます。
その兄弟ラザロについては、ヨハネ福音書にしか出てきませんが、伝説では、このラザロは後にキプロス島に渡り、そこの主教として最後を迎えたと言われています。
さて、ラザロが病気である知らせが、イエス・キリストのもとに届きます。わざわざ人をやってそのことをキリストに知らせたの、死の危機が迫ってきていたからです。しかし、それに対するイエス・キリストの反応はあっさりとしたものでした。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
この言葉の真意は、弟子たちでさえ理解できませんでした。「この病気は死で終わるものではない」という言葉は、弟子たちにとっては、「大した病でもない」という誤解を与えました。キリストがおっしゃった後半の言葉、「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」という言葉にはほとんど弟子たちの注意が払われませんでした。「この病気は死で終わるものではない」とイエス・キリストがおっしゃったのは、この後半のことばと合わせて聞くときにはじめて意味を持つものです。
しかも、ラザロが病気だと聞いて、二日間も同じ場所に留まっていた主イエスを見て、弟子たちはますますこの病が大したものではないという確信を抱いたようです。
しかし、11章全体を読むと明らかなとおり、ラザロの病は、実際には死に瀕した重病でした。本来ならすぐにでも駆けつけていかなければならないほどの病でした。しかし、イエス・キリストが二日も出発を遅らせたのには、特別な意図がありました。けれども、イエス・キリストがお考えになっていたことは、弟子たちには誰も思いもよらないことでした。
むしろ、二日もたってからラザロのもとへ行こうとするキリストを弟子たちは思いとどまらせようとします。というのは10章31節で記されていた通り、ユダヤ人たちの中には、神を冒涜したという理由で、キリストを石で打ち殺そうとした人たちがいたからです。
その上になお、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」とキリストがおっしゃるので、ますます弟子たちには話が通じなくなってしまいます。
キリストがおっしゃったのは、文字通りの「眠り」ではなく、「死」という意味の「眠り」のことでした。キリストはそうなることをご存じで、二日もラザロのもとに行くことを遅らせていたのです。それは、決してキリストが無情だったからではありません。おっしゃったとおり、神の栄光のためにあえてそうされたのです。
キリストがこれから行おうとしていたしるしは、死んだかに見えた人が、何かの拍子で息を吹き返した、というような説明で覆されるようなしるしではありませんでした。
ラザロの死は確かに訪れたのです。ラザロもまた他の人たちと同じように、罪の支払う報酬である死からまぬかれることはできなかったのです。
しかし、キリストにはその死を覆す力があります。そのことが明らかとなるために、あえてキリストは、ラザロを誰の目から見ても死んだとわかるようにされたのです。それは信じる者にとって、今もなお大きな慰めと励ましを与えるしるしです。