2014年11月20日(木)誰も奪うことはできない(ヨハネ10:19-30)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 牧師をしていて、いつも不思議に思うことは、人が神を信じるようになるプロセスです。人を信仰に導くのが上手な牧師、あまり上手でない牧師という区別があるのかもしれませんが、それでも人が神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じるようになるのは、自分の伝道の上手下手というものを超えた、不思議な力を感じるものです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 10章19節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 9章から始まった目が見えない男性の癒しの奇跡は、イエス・キリストを巡って、ユダヤ人たちの間で対立と分裂を引き起こしました。それに引き続いてなされたイエス・キリストのよい羊飼いについての話も、同じように聞く人々の間で意見の対立を引き起こしました。

 きょう取り上げた個所では、まず、このユダヤ人たちの間で生じた意見の対立を記します。結局のところ、同じ出来事を目にし、同じ話しを聞いたとしても、真理は誰の目にも同じようには写らないということです。ある者たちにとっては、キリストの御業も教えも、悪霊からきているとしか見えませんでした。

 さて、話の場面が変わって、神殿奉献記念祭が行われる冬のエルサレムに時が飛びます。場面は変わっても、イエス・キリストがどんなお方であるのか、という話の関心は、ここでも引き継がれます。

 神殿奉献記念祭というのは、旧約聖書には出てこない比較的新しい祭りです。イエス・キリストの時代から、およそ一世紀半ほど昔、ユダヤの国がシリアの王アンティオコス・エピファネス四世の支配下にあったときのことです。ギリシア化政策を押し付けられて、エルサレムの神殿にギリシアの神々が祀られるようになった時代の出来事です。この政治的・宗教的な弾圧政策に屈しない人々の手によって、再びエルサレムの神殿が取り戻され、清められたことを記念する祭り、これが神殿奉献記念祭と呼ばれる祭りです。

 この祭りは、光の祭りとも呼ばれている通り、8日間にわたってともし火をともして祭りを祝いました。外国の支配から宗教的な自由を勝ち取ったことをお祝いする祭り。しかし、イエス・キリストの時代には再び外国の支配下にあったわけですから、ユダヤ人たちには、まことの光、まことの救い主が再び現れることを期待する祭りでもあっただろうと思います。

 神殿を歩いておられたイエス・キリストを取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と、人々が口々に言ったのは、そんな祭りの背景があったからでしょう。メシア到来の期待が高まる中で、苛立ちを感じる人々の様子が見事に描かれています。

 面白いことに、ヨハネはその場面を描くのに、そのとき「冬であった」とわざわざ記しています。確かに神殿奉献記念祭が行われたのは12月頃でしたから、「冬であった」という言葉には間違いがありません。しかしまた、イエス・キリストとユダヤ人との間に横たわる寒々とした関係を連想させます。イエスを救い主と信じて従って行く人々と、頑固にもそれを拒みつづける人たちの冬の時代を思わせる言葉です。日の光と暖かみとがすぐそばにありながら、それを拒みつづける人々の心に吹きすさぶ寒々とした冬です。

 「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と詰め寄る人々に対してお答えになるイエス・キリストの言葉は、今まで何度も繰り返し語られてきた言葉でした。

 「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。」

 ここに救い主を信じるということの不思議さが描かれています。信じようとする者にとっては、すべてが明らかなのです。イエス・キリストは言葉によっても、行いによってもそのことをはっきりとお示しになったと主張されます。メシアの到来に気がつかないのは、情報が不足しているからではありません。目の前にある事実にかたくなに目を閉ざしているからなのです。ヨハネ福音書の全体の構成は、まるで福音書の読者を裁判の法廷に陪席させているかのようです。次々と登場する証言や証拠を一通り見聞させた後で、あなたはどう思うかと判断を迫ります。一人一人が、この大きな問の前に立たされています。あなたは、イエス・キリストの言葉や業を見聞きして、このひとこそメシアであると判断するかどうか、問われています。

 さて、イエス・キリストはさらに言葉を続けられます。

 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

 イエス・キリストを信じ、キリストに従っていく者たちを、キリストは、「わたしの父がわたしに下さったもの」と表現しています。そしてその者たちをキリストは知っていてくださるとおっしゃいます。

 「わたしの父がわたしに下さったもの」と言う表現は、ヨハネによる福音書に繰り返し出てくる表現です。ここで、ふたたび「わたしの父がわたしにくださったもの」という表現を使って、その者たちを「だれも父の手から奪うことはできない。」と断言されます。

 イエス・キリストを信じる者たちの数は少ないかもしれません。多勢に無勢で、押しつぶされてしまいそうなこともあるかもしれません。敵対する人々に取り囲まれて、信仰を揺さぶられてしまったなら、太刀打ちできなくなってしまうかもしれません。
 けれども、イエス・キリストは「誰も奪うことができない」と力強く語ってくださいます。キリストによって知られ、キリストによって守られ、キリストによって最後まで導かれて歩む一団の群れにわたしたちは加えられているのです。