2014年11月13日(木)一人の羊飼い、一つの群れ(ヨハネ10:14-19)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
高校生時代のことですが、わたしは学級委員をしたことがあります。学級委員というと、とても聞こえがいいですが、学級委員に選ばれると言うことは、実際にはそれほど大したことではありませんでした。小学生の頃の学級委員といえば、クラスの人気者でしたが、高校生ぐらいになると、学級委員の大変さをみんな知っていますので、とにかく選挙の時となると、みんなの押し付け合いが始ります。そんな中で選ばれたのですから、クラスの信望や人気とはおおよそ関係のない学級委員の誕生です。
何かとクラスの意見を取りまとめることが求められた学級委員ですが、もともと信頼のない学級委員の誕生ですから、クラスを取りまとめるのは至難の業でした。クラスと先生の間にはさまれて苦しい思いをすると言うこと、そんなことはしょっちゅうです。もともと、学級委員を選ぶ時にも、みんなの心はばらばらだったのですから、まとまる方が不思議なくらいです。けれどもその反対に、クラスが一致団結した時には、これほどうれしいと感じることはありませんでした。クラスをまとめると言うことは、リーダーが生まれ持っているキャラクターによるところもあるかもしれませんが、それ以上に日ごろの積み重ねで信頼を勝ち取っていくという面も大きいと思います。
これは、学級委員に限らず、リーダーと呼ばれる立場にいる人なら、誰もが一度は経験することだと思います。集団をどう纏め上げて行くか、と言う苦労、そして、一致団結できた時のうれしさ、この喜びがあるからこそ、リーダーであることを続けて行くことができるのかもしれません。
もっとも、集団をどうまとめて行くのか、ということはとても大きな問題です。人はときどき、力ずくで一致を図ろうとするからです。力ずくでまとめることは、簡単にできますが、それは、集団の内側から出てきたものではないので、力のたががゆるんだとき、ばらばらになってしまいします。見かけだけのまとまりでは意味がありません。
さて、きょうお読みする個所には、良い羊飼いとしての主イエスのリーダーシップの秘訣が記されています。イエス・キリストは、どうやって群れを纏め上げようとなさっていらっしゃるのか、早速読んでみることにしましょう。
それでは今日の聖書の個所をお読みします。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 10章14〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
「わたしは良い羊飼いである」とイエス・キリストはおっしゃいます。良い羊飼いとしてのキリストについては、先週も少しお話しました。今、ご一緒に学んでいる個所には、偽物のリーダーたちに対して、ご自分こそが本当のリーダーであると言うことを主張されるイエス・キリストのお言葉が記されています。
ここで登場する偽者リーダーたちは、力ずくでことを運ぼうとする人たちでした。主イエスがここでいわれているようなお話をする直前の場面で、このリーダーたちはキリストに目を開いていただいた男の人を捕らえて、力ずくで自分たちの意見を聞かせようとしていた人たちでした。彼らはイエスをメシア・救い主であると信じる者を自分たちのコミュニティーから追放することを決めていた人たちでした。
さて、イエス・キリストは良い羊飼いの特徴として、群れのことを知っていると言う点を第一に上げています。キリストがご自分の群れに属する者たちを先ず知っていらっしゃるので、群れに属する者たちもイエス・キリストを知っているという関係が成り立っています。
キリストが群れに属する者を知っていらっしゃるというのは、ただ、知っているというのではありません。誰が群れに属する者であるか、ということを知っていらっしゃるだけではなく、その群れに属する一人一人を愛していてくださっていると言うことなのです。そのことは、良い羊飼いの第二の特徴に具体的に上げられています。
つまり、羊のために自分から進んで命を捨てるということです。誰かから強引に命を奪われてしまうのではなくて、自分で進んでそうするとキリストはおっしゃっています。ここにイエス・キリストの群れに対する深い愛が示されています。
だからこそ、羊の方でも自分を愛してくださるお方の声がわかるのです。自分を愛してくださるお方であるからこそ、心から尊敬し、従って行こうとする思いになるのです。
わたしには、小学校一年生の時の、こんな事件の思い出があります。その頃私が通っていたのは、山陰地方の田舎の小学校でした。冬の暖房には、当時、石炭をくべる「だるまストーブ」が使われていました。その事件は、六年生のクラスで起こりました。突然だるまストーブの足が折れて、燃え盛るストーブが傾き始めたのでした。担任の先生はとっさに素手で倒れそうになったストーブを支えて大火傷を負いました。
次の週の月曜日、白い包帯を手にしたその先生を前に、校長先生がその出来事を朝礼の時間にお話してくださいました。小学校一年生のわたしでしたが、すごく感動したのを覚えています。先生に対する尊敬の気持ちが自然と沸き起こってきました。先生と言うものは、こんなにまでしてわたしたちのことを思っていてくださるんだ、ということを身をもって感じることができたからです。
わたしたちの羊飼い、主イエス・キリストは、ご自分の命をささげて、ご自分の群れを守ってくださいます。そんなにも羊を愛してくださるお方ですから、羊も、自分を愛してくださるそのお方の声に耳を傾け、従って行きます。
イエス様はおっしゃいました。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」
偽のリーダーたちはどんなにがんばっても群れを一つにすることはできませんでした。それは、群れを心から愛していなかったからです。けれども、命を捨ててでもわたしたちを愛してくださるお方によって、わたしたちは本当の一致を味わうことができるのです。キリストは、民族の枠を超えて、ご自分の羊を導いてくださいます。この群れの中に加わるようにと、良い羊飼いであるイエス・キリストがあなたをも招いてくださっています。