2014年10月30日(木)羊の門(ヨハネ10:7-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
羊という動物について、わたしはそんなに馴染みがありません。観光向けの牧場で何度か羊の群れを見たことがあるくらいです。群れと言っても、それはたいした数のものではありません。聖書の舞台、パレスチナの羊飼いの写真をよく目にしますが、それと比べたら物の数にも入らないくらいの数しかいない羊です。
わたしには本からの知識しかありませんが、イエス・キリスト時代の羊飼いたちは、多い人で数千頭以上の群れを任されていた者たちもいたそうです。一口に数千頭といっても、それは気が遠くなるような数ではないかと思います。わたしは毎朝通勤電車に乗って東京まで通っていますが、ひとつの車両にすし詰めにされた二百人に満たない人々でさえ、到底把握することは出来ません。はっきりいって、四人しかいない自分の子供でさえ、把握していないことがあります。ずいぶん前にホームアローンという映画がはやりましたが、家族旅行に出かけるのに、うっかり自分の子供を家に置いてけぼりにしてしまうお話です。あんなのは映画の世界の話と思うでしょうが、実はわたしはデパートに子供を置いてけぼりにしたことがありました。駐車場まで行って、いないことに気が付いたのです。
そんなことを思うと、数千頭もの羊を飼う羊飼いの苦労はどれほどのものかと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 10章7節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである
パレスチナの羊飼いたちは羊を囲っておくために、羊が飛び越えることが出来ないくらいの高さに石を積み上げて囲いを造ったといわれています。そして、出入り口には門があって、そこを通って羊飼いが出入りし、羊たちもまたそこを通って出入りしたそうです。
イエス・キリストが、ご自分はその羊の門であるとおっしゃるのには、二つの意味がありました。一つは、羊へ近づくための正当な入り口と言う意味です。イエス・キリストこそが羊に近づくための正当な門であって、そこを通らずに羊に近づく者は盗人であり、強盗であるとおっしゃいます。しかも、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と、手厳しいことをおっしゃいます。キリスト以前にも一人ぐらいはまともな羊飼いがいてもよさそうですが、「皆、盗人であり、強盗である」とおっしゃいます。
その上、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」と、はっきりと盗人のやってくる目的をおっしゃっています。毒にも薬にもならない安全な泥棒というのはいないのです。
もちろん、このキリストの言葉の背景には、特別な事情がありました。ユダヤの民を正しい方向へと導かなければならないはずの指導者たちが、民衆を救いどころか、滅びへと導いていたからです。
そういうことは、先週も触れたとおり、旧約時代の指導者たちにもありました。キリストの時代の指導者たちも同じことの繰り返しです。
実はイエス・キリストの時代から数十年たって、実際にこんなことが起こりました。ローマとユダヤとの間で民族独立の戦争が起こったときのことです。結果はユダヤ民族が徹底的に打ちのめされるという結末を迎えましたが、それは指導者たちの間違った宗教的な確信によるものでした。神が助けようとされていないのに、神が必ず味方してくれるとうそぶいていたのです。その判断を誤ったのは、こんな出来事があったからでした。
ある晩のこと、神殿の城門が自然に開くと言う不思議な出来事が起こりました。ある人々はこれを神がエルサレムに入城されたことのしるしと受け取って、戦争を開始する絶好の機会と理解したのでした。間違った指導者達に従った人々は財産も家族も、そして自分の命さえもこの戦争で落としてしまいました。
羊の門であるキリストを無視して羊に近づく者は、皆、強盗や盗人と同じで、羊に命を与えるものではないとキリストは厳しくおっしゃっています。
けれども、ご自分が羊の門であるとイエス・キリストがおっしゃるのには、もっと大切な意味がありました。それは、まさに羊のための門であるということです。羊の門を通って囲いの中に入れば、そこには安全があります。囲いの外をうろつく猛獣から身を守ることができるのです。そしてこの安全を得るために、イエスという門が羊のために開かれているのです。
羊の門は囲いへの入り口であると同時に、またそれは、緑の牧草地へと羊の群れを連れ出す羊のための出口でもあるのです。豊かに生える緑の草を食べて、羊は命を得ることができるのです。
イエス・キリストが羊の門であるということは、そこにこそ救いへの入り口、命へ至る道が約束されていると言うことにほかありません。
命と言うのは、ただ生きているということではありません。ただ生きているということに満足する人はいないでしょう。満ち足りた生き方、充足した毎日を送りたいと願うのは、すべての人が求めていることです。それは食べ物や着る物に満ち溢れていると言うことで満たされることではありません。
学校の成績がその人の生涯をかなり左右すると言うことが現実だとしても、それが一人の人間に満ち足りた生涯を約束しないと言うことも分かっているはずです。絵に書いたような幸せな結婚生活でさえも、それだけで人間が深い充足感を味わいつづけることが出来ないということを人間は知っています。食べるものも、着る物も、住むところも、学業も、社会的な地位も、そして結婚も、それらが人間にとって必要なものであり、そして、それらがある程度人間を幸せにし、一時的にでも満足感を与えるとしても、それでも、なお、足りないものがあることを人間はうすうす感じているのです。
この魂の叫びにどう答えるのか、それこそがわたしたち人間が求めつづけていることなのです。
イエス・キリストはおっしゃいます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」
また、イエス・キリストはおっしゃいます。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
イエス・キリストだけが命に至る門、しかも、豊かな命へと至る門なのです。