2014年9月25日(木)神の栄光が現れるため(ヨハネ9:1-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 普通、わたしたちにとって事実というものは、一つしかないと考えられがちです。たとえば、「あそこに木が一本生えている」という言葉が事実であれば、そこに一本木が生えているはずですし、そうでなければ、木は生えていないはずです。見る人によって木が生えていたり、いなかったりということはふつう考えられません。誰が見てもそこには木が生えているかいないかのどちらかです。
 ところが、もしある人が「あそこに邪魔な木が一本生えている」と言ったとします。その同じ木を指して、別な人は「あそこにとても役に立つ木が一本生えている」と言ったとしたら、いったいどっちが事実なのでしょう。
 この場合には「邪魔だ」とか「役に立つ」というのは、その人の受け取り方の問題で、生の事実とは切り離して考えるべきだ、と言われるかもしれません。確かにそうです。しかし、実際には、わたしたちが事実だと呼んでいることの中には、見る人の解釈が含まれているものが実にたくさんあります。というよりも、純然たる事実だけで物事を捕えたり理解したりできないのが、わたしたちではないかと思います。
 きょう取り上げようとしている個所も、生まれつき目が不自由であった人が、事実、視力を回復したかどうかという純然たる出来事だけを巡って議論が起こっているのではありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 9章13節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

 先週、イエス・キリストが、生まれつき目の見えない一人の男の人を癒された話を学びました。きょうはその続きの場面です。以前は目が見えなかった人が、今は見えるようになったという事実を巡って、前回取り上げた記事の終わりのほうで、こんな議論が人々の間で起こりました。つまり、ここにいる男は、あの目が見えなかった人とは似ているだけで実は別人なのだ、という議論です。従って、盲人が見えるようになったというのは、事実ではないというのです。もし、似ているだけで別人であれば、それは奇跡でもなんでもありません。しかし、本人が自分の口で、それは他ならない自分だと主張したために、これには反論の余地がありませんでした。
 そこで、次に問題になったのは、どのように目が見えるようになったのかという点を巡ってでした。見えるようになったというのは動かすことのできない事実ですから、問題はその事実がどのように実現したのか、という点に人々の関心が自然と移っていきました。目が見えるという事実を覆すことができないとしても、その事実が起こる過程に問題があれば、事実の意味を引き下げることができるからです。つまり、端的に言えば、その方法によっては、それが神からのものではないということを示すことができると考えられたからです。

 この「どのようにして」という質問に対しても、この男の答えはとても淡々としたものでした。イエス・キリストに言われた通りのことを繰り返します。

 ここまでが先週取り上げた個所に記されていたことでした。

 さて、ここに一つの問題が明らかになりました。イエス・キリストがこの生まれつきの盲人をお癒しになったのは、働いてはならない安息日のことでした。土をこねて目に塗ったり、それを洗い落とすように命じたり、どれも安息日に違反した行いです。

 そこで、人々は癒された男の人をファイリサイ派と呼ばれる、ユダヤ教の中でもモーセの律法を厳格に守るグループの人たちのところへつれて行きます。そしてこのファリサイ派の人々も同じ質問をこの男に繰り返します。

「どうして見えるようになったのか」

 こう尋ねられて、この男は、人々に答えたのと同じように答えを繰り返します。

 「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」

 この答えを聞いたファイサイ派の人々の間には意見が二つに分かれてしまいます。彼らの判断の基準はこうでした。モーセの律法に定められている安息日を犯してまで働かれるイエス・キリストは、神から遣わされたお方ではありえない、と一方の人たちはそのように考えました。ところが他の人たちは、こんなにいろいろと不思議なしるしを行えるからには、罪あるただの人間ではありえない、と考えたのでした。
 確かにどちらにも一理あって、真理はどちらにあるのか簡単に見分けることはできません。

 このヨハネ福音書の3章に、こんな御言葉があったのを思い出します。

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

 神がその独り子、イエス・キリストをお遣わしになるに当たって願っていらっしゃることは、世を裁くことではなくて、御子によって世が救われることでした。けれども、人間は自分の罪深さによって、遣わされて来たお方がどなたであるかということに、心の目を閉ざしてしまっています。心を頑なにすればするほど見えるものが見えなくなってくるのが人間です。残念ながら、ヨハネの福音書はそのこと自体がすでに裁きであると述べています。

 一方目をいやされた男の人は、心の目までも開かれて行きます。「いったい、お前はあの人をどう思うのか」と尋問されて、この男の人は答えます。「あの方は預言者です」。

 イエス・キリストを預言者と理解したこの男の人の理解は十分とは言えないかもしれません。けれども、少なくともイエスというお方が、神から遣わされたお方であるという確信には揺らぎがありませんでした。この物語をおしまいまで読むと、この男の人の目がだんだんと開かれて行く様子がわかります。ついには、「主よ、信じます」とさけんで、自分の信仰を言い表します。

 神の御心は心の目を硬く閉ざして、自分で自分をさばきの中に閉じ込めてしまうことではありません。御子イエス・キリストによって世が救われることなのです。