2014年9月18日(木)神の栄光が現れるため(ヨハネ9:1-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 原因があって結果が起こる、という考えは、とても論理的な考えです。現在目にしている結果から、原因をたどっていくことで、今後同じ原因から起こる結果を未然に防ぐことができます。あるいは逆に原因がわかれば積極的に同じ結果を起こさせることもできます。
 このように論理的、科学的に結果から原因をたどっていくことは、わたしたちの生活にとても益をもたらします。
 しかし、どんなことでも原因がわかるというわけではありません。たとえば、なぜあの人は事故に遭い、わたしは遭わなかったのか、という究極の理由や原因は誰にもわかりません。あるいは、なぜあの人はお金持ちの家に生まれ、わたしはそうではなかったのか、その原因をだれも答えることができません。
 ところが、人間は不条理に思える出来事の原因を過去にさかのぼって説明することで自分の気持ちを納得させようとしたり、あるいは逆に余計に人生の意味を見失ってしまいがちです。

 きょう取り上げようとしている個所には、生まれつき目の見えない人の話が出てきます。主イエス・キリストはこの人をどう見ていらっしゃったのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 9章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム…『遣わされた者』という意味…の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

 きょう取り上げるのは、イエス・キリストがある町を通り過ぎられたときの話です。そこに生まれつき目の見えない人がいました。目が見えない人がいるということ自体は、今も昔も変わりはないかもしれません。ただ、そうした人々がどのように扱われていたのか、ということには違いがあったかもしれません。

 旧約聖書の申命記27章18節に出てくる教えに『「盲人を道に迷わせる者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。』という言葉があります。この教えが文字通り実践されているとすれば、ユダヤの社会は障害を持った人々に対して優しい社会であったということになるかもしれません。しかし、逆に考えてみると、こういうことをわざわざ言わなければならない社会は、そもそも障害を持った人々に対して冷たく、また偏見に満ちた社会であったのかもしれません。いえ、ユダヤの社会だけがそうなのではなく、罪に染まった人間の社会が、障害に対する偏見を持ちやすいのかもしれません。

 さて、登場するこの目の見えない人は、物乞いをしていたと記されています(ヨハネ9:8)。仕事に就くこともできず、物乞いをするしか生計の道がなかったのでしょう。ただ、ユダヤ人にとって施しをすることは美徳と考えられていましたから、世知辛い今の世の中とは違って、お互いに支え合う気持ちは、キリスト時代のユダヤの社会の方が健在だったかもしれません。

 しかし、どんなに生きていくだけの施しを受けたとしても、この目の不自由な男の人にとっては辛いことがありました。何が一番つらかったかというと、それは人々がこの人に対して抱いているいわれのない偏見です。それはこの男の人を見たキリストの弟子たちの質問の中に最もよく現れています。

 弟子たちは、この人を見て、イエス・キリストに尋ねました。

 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 この質問は、弟子たちに限らず、だれもが何度となく、この男に関して尋ねた質問であったかもしれません。けっして弟子たちだけが思いついた特別な質問ではないでしょう。ひょっとしたら、この生まれつき目の見えない男の人自身も、何度も何度も自分で自分に問い掛けたかもしれません。

 この人が目が見えないのは「生まれつき」なのですから、自分に何か問題があったその報いだということはできません。けれども、自分の両親のせいだ、といってしまえば、これほど辛いことはありません。自分を生んだ両親のせいで自分が障害を持っているなどと、誰がその答えに納得できるでしょうか。結局誰も慰めのある答え、納得のいく答えを見出せないままに、ただ、目が見えないという現実の中で時を過ごさなければならなかったのです。

 さて、イエス・キリストはどのようにお考えになっていたのでしょうか。キリストのお答えはこうでした。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 ここには大きな視点の違いがあります。何か不幸なこと、不条理と思えることが人生の中で起こるとき、わたしたちはその原因を過去へ遡って探そうとします。わたしの過去に問題があったから、わたしの両親に問題があったから、果ては私の先祖に問題があったから、あるいはわたしの前世に問題があったからと、そこまで考えてしまいます。過去に目を向け、その原因を探るとき、そこに本当の慰めは生まれません。

 過去はどんなに努力しても変えることはできません。たとえその原因がわかったとしても、どうすることもできません。

 けれども、イエス・キリストの物事を見る目は、違っています。わたしたちの心を現在と将来に向かって開かせてくださいます。過去を恨むのではなく、神の御業がここに現れることを期待させてくださいます。

 ここで働いて下さる神の大きな恵みに期待を寄せ、希望を抱くときにだけ、自分を今襲っている苦しみや悲しみから解放されることができるのです。どんなに過去へ遡って、その因果をたどったとしても、そこから解放されることはできません。神に希望を抱き、神の御業に期待を抱くとき、その時にこそ、心の目が開かれるのです。