2014年8月14日(木)世の光であるイエス(ヨハネ8:12-20)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今日の日本で、真っ暗な中を歩くという経験をすることは、とてもまれであるように思います。どこに行っても街灯やネオンの明かりが町を照らしています。そういう世界に住んでいると、明かりの有難さに鈍感になってきます。明かりの有難さがわからないのならまだしも、明かりや光についてのたとえにも鈍感になってしまいます。
きょう取り上げようとしている個所で、イエス・キリストは「わたしは世の光である」とおっしゃいます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 8章12節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。
先週は姦通の現場で捕えられた女の話を取り上げました。この話は本来ヨハネによる福音書の8章にはなかった話なので、前後の文脈を断ち切ってしまっています。
きょう取り上げた個所は、7章から始まっている仮庵祭での話と内容的につながっています。祭りに集まった民衆は、イエス・キリストのことを、ああでもない、こうでもないと噂話をします。ユダヤの指導者たちも、このままイエス・キリストを放置しておくのはよくないと考え、下役たちを遣わして、イエスを捕えようとします。しかし、それも失敗に終わり、指導者の内部でも意見の対立が見られるようになります。
そこで、再び場面は神殿の境内に戻ります。それがきょう取り上げている個所です。
少し、復習になりますが、7章37節以下で、イエス・キリストは、祭りが最も盛大に行われる日に、ご自分こそが飲んで渇くことのない水を与えるお方であることを明らかにされました。そして、そのようにご自分をお示しになったのは、祭りの儀式で、ギホンの泉から運ばれた水を神殿の祭壇に注いだことと関係がありました。
同じように、きょう取り上げる個所では、イエス・キリストはご自分を世を照らす光にたとえています。
実は、これも仮庵祭と深い関係があるたとえです。というのは、昔エジプトを出て仮庵暮らしで旅するイスラエルの民を、主なる神は火の柱をもって導かれました(出13:21-22)。そのことを記念して、仮庵祭の初日の夕刻には神殿の婦人の庭にある四つの金の燭台に火がともされました。
そのともしびを背景に、今、イエス・キリストは、おっしゃいます。
「わたしは世の光である。」
「わたしは〜である」とおっしゃるキリストについては、この福音書の中にすでに何度か出てきました。たとえば、「わたしは命のパンである。」「わたしは天から降ってきたパンである」とキリストはおっしゃいました(ヨハネ6:35,41,48,51)。このあとも、この福音書には「わたしは〜である」とお語りになるキリストの姿が何度も登場します(ヨハネ10:7,9,11,14; 11:25; 14:6; 15:1,5)。
この場面では、イスラエルの民を火の柱をもって導かれたお方と同じように、ご自身を世を照らす光としてたとえます。それは暗い世界を照らす光です。真っ暗な夜道では、人は道に迷ったり、石に躓いたり、溝に落ちたりして、昼間歩くようには歩けません。しかし、世の光であるキリストに従う者は、罪の支配する暗闇の世界であっても、光のうちを歩むことができるのです。
このヨハネによる福音書では、冒頭部分から、イエス・キリストは人間を照らす光として、暗闇の中に輝く光として紹介されていました(ヨハネ1:4-5)。また3章では、光である御子イエス・キリストが世に来たにもかかわらず、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を好んだと記されています(ヨハネ3:19)。
今、再び、ヨハネによる福音書は、世を照らす光であるイエス・キリストを紹介しています。しかも、ご自身の言葉で、世の光であるとお語りになるキリストを描いています。そればかりではありません。ご自分に従う者たちが、命の光を持つことを約束されています。
イエス・キリストは別の個所で、「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)とおっしゃいましたが、キリストの与える命の光をうちに持ち、世の光として生きる者とされるのです。
さて、これを聞いていたファリサイ派の人々は、イエス・キリストが語っていることは、自分で言ってることにすぎない、と非難します。自分について証をする、自己証言ほどあてにならないものはない、というのは確かです。
それに対して、イエス・キリストはお答えになります。
「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。」
父なる神のもとからおいでになった神の子キリストは、人間の証言とは根本的に異なっています。神ご自身が語る言葉に、他の証人を必要としないのと同じです。
イエス・キリストを神の子であると信じることができる者だけが、キリストの言葉の真実さを認め、光のうちを歩む者とされるのです。