2014年8月7日(木)罪を犯したことがない人が(ヨハネ7:53-8:11)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストは山上の説教の中で、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」とおっしゃいました。目の中のおが屑というのはわかりますが、目の中の丸太というのはちょっとあり得ないことです。いかにも大工の息子であったイエス・キリストらしいユーモアにあふれた喩えです。
表現のことはさておくとして、この喩えでキリストがおっしゃりたいことは、人間の偽善性という罪の問題です。世の中から罪を取り除くことは正しいことです。しかし、自分自身が神の御前に正しくないのであれば、それを棚に上げて他人の罪をあげつらうのは偽善です。しかし、人間はしばしば、自分の罪はできるだけ小さく評価して、他人の罪は大きく取り上げがちです。
きょう取り上げようとしている個所にはそうした人間の偽善性が現れています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 7章53節〜8章11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
人々はおのおの家へ帰って行った。イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
きょう取り上げる個所は、本来、ヨハネによる福音書にはなかったと言われています。その理由は、ヨハネによる福音書の古い写本には、この部分が欠落していること、そして、この部分は前後の文脈になじんでいないからです。そういう特殊な個所ですが、それでもこの部分は多くの翻訳聖書の中に残され、今なお聖書の読者に親しまれている有名な個所です。
さて、事件は神殿の境内で起こりました。イエス・キリストが民衆たちに教えているとき、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来ます。
彼らは何のために女をわざわざキリストのもとに連れてきたのでしょうか。ヨハネ福音書は彼らが「イエスを試して、訴える口実を得るため」であったと記しています。つまり、彼らの関心は姦通の現場で捕えられた女にあるのではなく、それを口実にイエス自身を訴える機会を狙っていたのです。それは言うまでもなくイエス・キリストに対する悪意に満ちた行動です。それと同時に、この女にとっては、イエスを訴えるための道具として利用されたにすぎませんでした。
では、どんな口実を律法学者たちやファリサイ派の人々は引き出そうとしたのでしょう。
モーセの十戒の第七戒にも禁じられている通り、姦淫の罪は決して犯してはならないことと定められていました(出エジプト20:14)。もし、これを破るならば、ただちに死刑に処せられることになっています(申命記22:22以下)。
ヨハネ福音書が報告している通り、もしこの女が姦通の現場で捕らえられたのであるとすれば、言い逃れはできません。しかも、他の人に聞くまでもなく、この事件をどう処理すべきかは明白です。とるべき処置はただ一つ、女を処刑するだけです。これが律法の定めです。
しかし、それほど明白な事件をわざわざキリストのもとへと連れてきたのにはわけがありました。ひょっとしたら、キリストは律法の規定に反して、女の釈放を命じるかもしれないと思ったからでしょう。もちろんそれは女のためではなく、イエス・キリストを訴えるためです。律法に反対し、律法の規定を破ったとして、イエス・キリストを宗教裁判にかける口実を得ることができるからです。
しかし、もし、キリストが、律法の規定に従って、女を処刑するようにと命じたらどうでしょう。彼らの目論見は、それでとん挫してしまうでしょうか。いいえ、そうではありません。彼らはその場合のことも考えていました。
ローマ帝国の支配下にあったユダヤでは、そもそも死刑の執行権がありませんでした。ヨハネ福音書の18章31節に書いてある通り、ユダヤの最高法院にさえ、人を死刑にする権限がなかったのです。ということは、もしここでキリストが、女を処刑するように命じ、自分から率先して手を下したとすれば、これは、ローマ帝国の裁判権に対する明白な違反行為です。
この男はローマ皇帝が遣わす総督をないがしろにして、勝手に死刑を執行したと訴えれば、簡単にイエス・キリストを逮捕することができるでしょう。
つまり、イエス・キリストの答えがどうであれ、彼らは確実にキリストを失脚させることができたのです。なんと計算されつくした計画でしょう。
ついでに言うと、彼らは自分たちの手で、ローマ帝国の裁判権を平気で踏みにじることもありました。少しあとの時代になりますが、ステファノを石打ちに合わせて処刑しています(使徒7:57-58)。そうです、彼らは自分たちの都合で動いているのです。
それにもう一つ、本当にこの女が姦通の現場で捕えられたのだとすれば、モーセの律法は相手の男も一緒に処刑するようにと命じています。いったい相手の男はどこへ行ってしまったのでしょう。何かそこにも腑に落ちないものを感じます。
さて、イエス・キリストのお答えは、どうだったでしょう。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
この言葉に対して、人々は年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残ってしまいます。
そうです、人を罪に定めることがおできになるお方は、神お一人だけです。そして、神は律法を通して、善と悪とをはっきりと示しています。それは自分の罪を棚に上げて、だれかを裁くためではありません。まして、人を陥れる口実として、律法を利用することは許されません。神の律法と真摯に向き合うことをキリストは望んでいらっしゃいます。