2014年7月24日(木)イエスを信じる人は(ヨハネ7:37-44)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 毎年、夏が近づくと、熱中症の対策のために、水分の補給をこまめにするようにと勧められます。熱中症が怖いのは、炎天下ばかりではなく、日の当たらない室内でも起こるからです。徐々に起こる脱水症状や体内にこもってしまう熱は、案外気が付きにくいものです。

 同じことは、霊的な意味での脱水症状にもいえるかもしれません。魂の渇きに対して、注意を払う人がほとんどいないために、魂が渇ききっていても、そのことにすらなかなか気がつきません。

 きょう取り上げようとしている個所では、渇いている者たちを、キリストがご自分のもとへと来るようにと招いておられます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 7章37節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。
 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

 きょう取り上げた個所に出てくる場面は、ユダヤの三大祭りの一つ、仮庵祭での出来事です(ヨハネ7:2参照)。レビ記23章によれば、第7の月の15日から始まって7日間、仮庵祭が守られます(レビ23:34)。きょうの場面は、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」とある通り、聖なる集会が開かれる8日目のことだと思われます(レビ8:36)。

 イエス・キリストの時代には、祭りの期間中、ギホンの泉から黄金の器で水が運ばれて、神殿の祭壇に注がれました。イエス・キリストが渇いた者たちを招き、「生きた水」について語っているのは、こうした祭りの儀式と関係していることは、間違いないでしょう。毎日、ふんだんに注がれる水を目の当たりにしてきた人々に対して、あえて、「渇いている人」を話題として取り上げているのです。

 もちろん、ここで言われている「渇いている人」というのは、文字通りのどが渇いている人ではありません。比喩的な意味で、渇いている人です。ちょうど詩編42編に出てくるような、涸れた谷に水を求めて鹿がさまようように、主なる神を求めて、魂の渇きを感じている人です。

 祭壇に水が注がれてきた仮庵祭を背景にして、主なる神を求めて魂の渇きを感じている人を招く、というのは、ある意味、神殿で行われている儀式に対して、挑戦的な態度、と言えるかもしれません。仮庵祭にあずかり、ほんとうに主なる神と出会って魂の渇きが癒されているのであれば、「渇いている人」を招く必要がないでしょう。

 水があるはずの谷川に鹿が水を求めても、そこが涸れた谷であるために渇きを癒すことができないように、まるで神殿の儀式では、起こるはずの神との出会いもなければ、魂の渇きを癒すこともできないと言わんばかりです。

 実際、イエス・キリストの目には、祭りの時に祭壇に注がれる水は、魂の渇きを少しも癒すことがない、むなしい水と映ったことでしょう。そうであればこそ、イエス・キリストは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招いておられるのです。

 この招きの言葉は、神殿でなされている儀式の空しさを指摘しているばかりではありません。ご自分こそが魂の渇きを癒すことができるお方であるという宣言でもあります。

 ヨハネによる福音書は、すでに4章のところで、井戸端で出会ったサマリアの女との会話を通して、ご自分こそが、渇くことがない水を与えるお方であることをお語りになるイエス・キリストを描いてきました。それはサマリアの女との間でなされた個人的な会話でしたが、ここでは、祭りの場で、公に宣言されたイエス・キリストの言葉です。

 イエス・キリストこそが、永遠の命に至る生きた水を与えることができるお方です。イエス・キリストこそが永遠者であり、命の源である主なる神とわたしたちを結びつけることができるお方です。

 そればかりではありません。イエス・キリストは、キリストを信じてご自身のもとに来る人は、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とさえおっしゃっています。もちろん、そのことは、サマリアの女との間でなされた会話でも言われていました。

 「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)

 泉からあふれ出た水が、やがては川となって流れ出すように、きょうの箇所では「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と、一歩進んだ表現で描かれています。

 しかも、そのことは、聖書に書いてある通りであるといわれています。具体的にどの箇所を指しているのかは、はっきりと引用されてはいませんが、思い当たる言葉は旧約聖書の中に何箇所もあります。

 たとえば、エゼキエル書の47章にはエルサレムの神殿の下から命の水が川となってあふれ出ることが預言されています。同じようにゼカリヤ書14章8節にはエルサレムから命の水が湧き出て、東西の海に注がれる様子が語られます。しかも、このゼカリヤ書が描く終末のエルサレムでは、仮庵祭が祝われています(ゼカリヤ14:16)。

 確かに、これらの預言には、人から命の水が川となって流れ出るとは言われていません。けれども、ヨハネ福音書が語っている通り、この川となってあふれる命の水とは、やがてイエス・キリストを信じる者たちに与えられる聖霊を指しています(ヨハネ7:39)。そうであるとすれば、そのイメージは、キリスト者は神の霊を宿す神殿であり(1コリント6:19参照)、そこから、生きた命の水が川となって流れる、あの預言書が描いた神殿のイメージと重なります。

 祭りのために集った人々は、残念ながら、イエス・キリストのおっしゃる意味を正しく理解することはできませんでした。しかし、誰でも魂の渇きを覚えるならば、キリストこそその渇きを癒してくださるお方です。そして、そればかりではありません。旧約の預言者たちが語ったように、聖霊を宿す神殿から、つまりキリストを信じて聖霊をいただいている者のうちから、命の水が川となって流れ出るのです。