2014年7月3日(木)イエスに対する分かれる評価(ヨハネ7:10-24)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ナザレのイエスというおかたこそキリストであると信じるのがキリスト教です。キリストとは油注がれた者という意味ですが、その昔、王や祭司や預言者を任命するときに、その者の上に油を注いだことから、その名が来ています。キリスト教はナザレのイエスにこそ油注がれた救い主としての働きが与えられていると信じています。
しかし、イエス・キリストの時代も今も、だれもがそのことを認め、信じているわけではありません。いつの時代にもイエス・キリストに対する見方は分かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 7章10節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。…もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが…だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
前回の学びでは、いちばん近くにいるはずのイエス・キリストの兄弟たちが、イエス・キリストに対しての理解が乏しかったことを学びました。今回は、ユダヤの人々の無理解を取り上げることにします。彼らのイエス・キリストに対する無理解は今に始まったことではありませんでした。ベトザタ池のほとりにいた病気の男の人を癒したときもそうでしたし(ヨハネ5:15-18)、5千人もの人々に食べ物を分け与えられたときもそうでした(6:41-42)。残念ながらイエス・キリストをまことの救い主として理解することはできませんでした。
さて、前回取り上げた個所には、「仮庵の祭には上っていかない」と、ご自分の兄弟たちにお告げになったイエス・キリストの言葉が記されていました。しかし、きょうの個所には、兄弟たちが祭りに上って行ったあと、エルサレムに行かれるイエス・キリストの姿が描かれます。それは、兄弟たちが期待するようなメシアとしてではなく、イエス・キリストご自身のお考えによって上っていくためでした。
祭りのためにエルサレムに集まった人々の間では、既にイエス・キリストの噂で持ちきりでした。しかし、イエス・キリストに対する群衆たちの評価は完全に分かれています。ある者たちはキリストのことを「良い人だ」といい、ほかの人たちは「群衆を惑わしているだけだ」と言っていたからです。
群衆たちの考えは両極端にわかれているようにも見えますが、せいぜい良い方の評価であったとしても「良い人だ」という程度のものでした。イエス・キリストを救い主として公然と認める意見を述べる人はいなかったようです。
もっとも、イエスを殺そうとするユダヤ人たちもいたわけですから(ヨハネ5:18; 7:1,19)、たとえイエス・キリストを救い主と思う者たちがいたとしても、それを公然と語ることはできなかったのでしょう。
祭りも半ばになったころ、イエスは公然と神殿の境内で語り始めます。ユダヤ人たちの指導者を恐れて、イエスについて公然と語るのを憚ったユダヤの群衆たちとは対照的です。
そのイエス・キリストの言葉に驚きを覚えたのは、ユダヤ人たちでした。彼らが驚いたのは、イエスに学問がないのに聖書をよく知っているからでした。ここでいう「学問がない」という意味は、律法学者のおひざ元で学んだことがないというのと同じことです。確かに彼らが知っているナザレのイエスは、高名な律法学者のもとに弟子入りしたわけではありませんでした。彼らの知っているのは、大工の息子として育ったイエスです。しかし、そのイエスの口から律法学者にまさる聖書の解き明かしを聞いたとなれば、驚くのも無理はないでしょう。
けれども、ユダヤ人たちの驚きをよそに、イエス・キリストはこうはっきりとお答えになっています。
「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。」(ヨハネ7:16)
イエス・キリストはこれまでにも何度か、ご自分とご自分をお遣わしになったお方との関係を述べてきました。
たとえば、ベトザタ池のほとりにいた男を安息日に癒したことで、ユダヤ人から非難されたとき、イエス・キリストはこうおっしゃいました。
「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネ5:30)
お遣わしになった父なる神から学んだとおりを語るのですから、どんな律法学者もそれにかなうはずはありません。しかし、ほんとうに驚き怪しまなければならないことは、イエス・キリストがどこで聖書の知識を学んだのか、ということではありません。そうではなく、キリストの語ることが、神からのものであるのか、それとも自分の口から出たことにすぎないのか、そのことを見分けることのできない彼らの心の鈍さです。
イエス・キリストははっきりとおっしゃいます。
「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」(ヨハネ7:17)
結局のところ、彼らがイエス・キリストを理解できなかったのは、律法が求めていることを字面でしか理解していなかったからです。ベトザタ池のほとりにいた病人を安息日にもかかわらずお癒しになったのは、律法の本質が愛を求めておられる神の御心に一致していたからです。律法の字面ではなく、神の御心の本質を求める人だけが、キリストの教えを理解することができるのです。