2014年6月19日(木)主よ、あなたを離れては(ヨハネ6:60-69)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
自分が自分のものではなく、キリストのものとされている……このことの中に大きな慰めを見出したのは、宗教改革者たちの共通した認識です。なぜなら、このお方だけがご自身の血によって罪をあがなってくださり、永遠の命を保証してくださるからです。もしそうでないとしたら、いったいどこに魂の平安を見出すことができるのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 6章60節〜71節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…。命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
ヨハネ福音書の6章には、五千人もの人々に食べ物を分け与えられたキリストの奇跡がしるされていました。そして、その出来事の意味を、ユダヤ人たちとの会話をとおして、キリストは明らかにしてくださいました。
きょうはその6章の最後の部分です。そこにはキリストの話を聞いて、キリストのもとを離れていく弟子たちの姿と、逆にキリストのもとにとどまる弟子たちの姿が対照的に描かれています。
きょう取り上げた個所には、まず、弟子たちの失望が描かれます。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
ここに出てくる弟子たちが誰であるのかは、具体的には記されていません。ただ、このすぐ後で出てくる「十二人」という言葉から考えると、イエスのもとに留まった十二弟子以外の弟子たちであることは明らかです、
ヨハネ福音書は、ここに至るまでにも、何度も「弟子」という言葉を使ってきました。ヨハネ福音書の読者にとって、弟子といえば、これまで具体的に名前が挙がっていたのは、ペトロやアンデレ、ヤコブとヨハネ、フィリポやナタナエルといった人たちでした。ほかの福音書のように十二人の弟子たちをお選びになる場面があるわけでもなく、ずっとヨハネ福音書は「弟子」という言葉を使ってきました。ですから、当然、読者はここにいたるまで登場する弟子たちのことを、先ほど名前を挙げた人々と重ね合わせて読んできました。
ところが、きょう取り上げる個所にはイエスのもとを去っていく弟子たちのことが記されています。読者はここで初めて十二人以外の弟子の存在を知ります、
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
これが多くの弟子たちがイエスのもとを去って行った直接の理由です。「実にひどい話」と彼らが感じたのは、イエス・キリストの話の真意を理解していなかったからです。彼らはキリストのおっしゃることを文字通りにしか受け取らず、言葉の意味を表面的にしかとらえることができなかったからです。
確かにイエス・キリストは、ご自分のことを、「天から降ってきたパンである」とおっしゃったり、ご自分の血や肉を食べさせるとまでおっしゃっていました。
文字通りにこの言葉を受け取れば、ひどい話だと感じるのも無理はありません。しかし、キリストの語る言葉をしっかりと聞いていたならば、この言葉の真意は明らかです。文字通りにしか受け取ることのできない彼らの心の鈍さを嘆いて、キリストはお答えになります。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…。」
確かにキリストは文字通りマナのように天から降ってきたパンではありませんでした。けれども、天から降ってきたということに関して言えば、それは決して比喩ではありません。確かに、キリストは天の神のもとから遣わされて、地上にやってきたお方です。
しかし、彼らがそのことすら信じることのできないとするならば、もし、キリストが十字架と復活とを通して、父なる神のみもとへ戻るのを見たならば、どうしてそれを受け入れることができるでしょうか。
さらに言えば、キリストが天からのパンであるとおっしゃるのも、ご自分の肉を食べさせるとおっしゃるのも、霊的なたとえにほかなりません。キリストがおっしゃる永遠の命とは、聖霊によってしか与えることができない命です。キリストの話を聞いて、肉のパンが与える命のことしか思い浮かばないとすれば、とうていイエス・キリストを信じることなどできないことです。
残念なことに、多くの弟子たちが、このことをきっかけにキリストのものとを離れて行ってしまったとヨハネ福音書は語ります。しかし、多くの弟子たちがキリストに躓く一方で、キリストのもとに留まる弟子たちの姿が描かれます。この福音書では、ここで初めて十二人という言葉が登場します。
「あなたがたも離れて行きたいか」と残った十二人に問いかけるキリストに対して、シモン・ペトロが率先して答えます。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
このペトロの言葉は、キリストに対する信仰の告白と言ってもよいほどの内容です。
キリストの行う奇跡と教えの中に、永遠の命の源であるイエス・キリストを見出す人は幸いです。キリストを離れては、まことの救いも命も、ほかにはないからです。