2014年6月5日(木)天から降って来たパン(ヨハネ6:41-51)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストの母親がマリアであること、また父親のヨセフは大工であったこと、そしてイエス・キリストがこの二人のもとでお育ちになったことは、聖書に書かれている通りです。現代のわたしたちがそのことを聞いたからと言って、特別な思いを抱くということはありません。そのことを知ったからと言って、信仰の妨げとなることもありません。
しかし、イエス・キリストが育った故郷の人たちはそうではありませんでした。イエス・キリストの両親を知っているために、かえってキリストのことが分からなくなってしまいました。
きょう取り上げる個所にはそうしたユダヤ人の躓きが記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 6章41節〜51節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
今週もヨハネによる福音書6章から学びたいと思います。この6章には、五千人もの人々に食べ物を分け与える奇跡をキリストが行ったことがきっかけで、「命のパン」をめぐる論争がキリストとユダヤ人との間でくり広げられます。
きょう取り上げた箇所には、イエス・キリストに対するユダヤ人たちのつぶやきが記されていました。そのつぶやきのきっかけは、主イエスご自身が、ご自分は天から降ってきたパンであるとおっしゃったことにありました。
ユダヤ人たちにとって、イエス・キリストは普通の人間としか思えませんでした。もちろん、大勢の人々にパンを分け与えたのですから、普通の人間ではなかったことは確かです。またそうであればこそ、群衆たちはわざわざイエス・キリストを追いかけて、ここまでやってきたのでした。しかし、いざ、キリストご自身の口から、ご自分が天から降ってきた命のパンであることを聞かされて、それを受け入れることができませんでした。
というのも、一つには、彼らの頭の中には、天からのパンといえば、モーセの時代に神が天から降らせたマンナのことがイメージにあったからです(ヨハネ6:31)。天からのパンと聞いて、そのマンナのイメージから抜け出すことができなかったのです。
イエス・キリストが天からのパンであると聞いて、それを受け入れることができなかったもっと大きな理由は、主イエスについて、中途半端にしか知ろうとしなかったことです。彼らにとってのキリストは、ヨセフとマリアの息子ということに尽きました。ヨセフもマリアも長年自分たちの中で暮らしてきた人間でした。親子二代にわたって見てきた人たちですから、突然、天から降ってきたパンだといわれても信じられないのは仕方ないかもしれません。
しかし、イエス・キリストが行った五千人もの人々に食べ物を分け与えた奇跡の意味をしっかりととらえていたならば、決してキリストに対して心の目を閉ざしてしまうことはなかったでしょう。
ご自分を追ってくるユダヤ人たちに対して、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」とキリストはおっしゃいましたが(ヨハネ6:26)、その言葉の通り、ユダヤ人たちは主イエスの中に、自分たちの人間的な期待を投影していたにすぎなかったのです。それ以上のもの、天から与えられる命のパンのことなど最初から期待していなかったことが明らかになります。
ユダヤ人たちは、イエスのことでつぶやいてこう言いました。
「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
イエス・キリストは、ユダヤ人たちの「どうして」という質問に対して、正面からお答えにはなりません。そのかわり、こうおっしゃいます。
「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」
これは一見、宿命論のように聞こえます。前回も指摘しましたが、この福音書の中には、繰り返し、「父がお与えくださる者」「父が引き寄せてくださる者」についての言及があります。父なる神が引き寄せ、御子イエス・キリストにお与えになった者だけが、神の子とされ永遠の命にあずかるように記されています(6:37,39,65,10:26,17:2,6,9,24)。
しかし、ここでは、その言葉に続いて、こうもおっしゃいます。
「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。」
父から聞いて学んだ者は、キリストのもとへ来るはずなのですから、いいかえれば、彼らは心をかたくなにして、神の教えを拒んでいるということでしょう。
この福音書の5章で、キリストはユダヤ人に対して、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と批判しています。
彼らは聖書の教えを学び違えて、聖書の中にキリストを見出すことができないのです。神から教えられなかったわけではありません。心の目をふさいで、キリストを見出そうとも、来ようともしないのです。
キリストこそ天から降ってきた命のパン、イスラエルの民がかつて荒れ野で食べたが、いずれは死んでしまったようなマンナとは違う、永遠の命を与える命のパンです。このことを信じるようにと、ヨハネ福音書はわたしたちを招いています。