2014年5月22日(木)パンについての思い違い(ヨハネ6:22-33)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
食べ物と命が直接関係していることは誰もが知っています。生命を維持するために、とりあえず食糧を確保することが大切だと誰もが考えます。確かに肉体の命に限って言えば、そのとおりかもしれません。しかし、魂も含めた人間の命全体のこととなると、話は違います。
聖書が語る命とは、単に肉体の生命ということばかりではありません。神の御前に生きた存在であるかどうか、そのことも含めた命が問題とされています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 6章22節〜33節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
きょう取り上げる箇所は、五千人もの人々に食べ物をお与えになったキリストの奇跡に続く話です。
人々はこの奇跡を目の当たりにして、イエス・キリストを自分たちの王にしようと願いました(ヨハネ6:15)。食べ物を何不自由なくお与えくださるお方に、自分たちの王になっていただきたいと願うのは、当然の思いといってもよいでしょう。食べものは命と直接結びついているのですから、自分たちの命を守っていただくことができると主イエスに期待するのも無理はありません。
かつて、荒野でサタンからの誘惑を受けたときに、サタンは、イエスが神の子であるなら、石をパンに変えるようにとそそのかしました(マタイ4:3)。その結果どのような事態になるか、サタンは知っていたからです。
人々の注目を集め、簡単に人気を博することができる反面、人々の心をまことの救いから逸らせ、目の前のことばかりに気を奪わせることができるからです。
イエス・キリストが五つのパンと二匹の魚から、五千人もの人々に食べ物を十分に分け与える奇跡には、そのような危険が伴っていることは、誰よりもイエス・キリストがご存知のはずでした。
そうであればこそ、キリストはご自分を王として擁立しようとする群衆のもとをいち早く離れ、湖の向こう岸へと渡られました。そこまでが先週学んだ場面です。
さて、群衆の方はというと、弟子たちばかりかイエス・キリストも自分たちのところからいなくなったことに気がつくと、後を追いかけて湖を渡ってきます。
この群衆に対して、イエス・キリストは単刀直入にこうおっしゃいます。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
イエス・キリストが群衆の誤りを指摘しているのは、奇跡の意味を悟ることができなかったという点です。「しるしを見たからではない」とは、そういう意味です。
すでにこの福音書にはイエス・キリストがなさったしるしがいくつか記されてきました。そして、そのしるしを見た人は、イエス・キリストを信じる信仰へと動かされます。
たとえば、カナで水をぶどう酒に変えたしるしを見た弟子たちは、そこにイエスの栄光を見て、「イエスを信じた」といわれています(ヨハネ2:11)。奇跡とは、単に奇跡の結果がもう一度起こることを期待させるためにあるのではありません。その出来事を通して、信仰が呼び起こされるためになされるものです。
群衆たちがパンの奇跡に見たものは、残念ながら、イエス・キリストの栄光ではありませんでした。キリストが指摘しているとおり、満腹感に対する期待が群衆を動かしていたのです。キリストが与えようとしている永遠の命にいたる食べ物に対して目が開かれたのではなく、現実のパンに心奪われてしまったに過ぎませんでした。
そこで、群衆に対してキリストはこう命じます。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」
ヨハネ福音書は4章でイエス・キリストを「永遠の命にいたる水」を与えるお方として描きました(ヨハネ4:14)。ここでは永遠の命に至る食べ物を与えるお方として描かれます。
この永遠の命に至る食べ物のために働くようにと命じるキリストの言葉の真意を、残念ながら群衆たちは理解することができませんでした。というのも、彼らがイメージした行うべき神の業とは、ひとつだけではありませんでした。「もろもろの神の業」と複数形で理解していました。
ところが、キリストが心のうちに考えていたことは、たった一つのことでした。そのひとつの業とは、「「神がお遣わしになった者を信じること」、このひとつのことでした。
イエス・キリストが五千人もの人々をたった五つのパンと二匹の魚で養われたのは、食べて満腹するためではなく、神がお遣わしになった救い主を、信じて永遠の命を得ることです。それこそが神が願っているたった一つの業なのです。