2014年5月8日(木)五千人を養う主イエス(ヨハネ6:1-15)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
日本中どこに出かけても、食事の心配をするということは、あまりなくなったように思います。わざわざ家からお弁当を持っていかなくても、お金さえあれば食事をするところはいくらでもあります。いざとなれば、コンビニエンスストアで食料を調達することもできます。
これだけ便利な世界に住んでいると、きょうこれから取り上げようとしている話は、あまりぴんとこないかもしれません。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 6章1節〜15節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の篭がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
きょう取り上げる個所は、キリストが五千人の人々にパンと魚を分け与えた奇跡の話です。四つの福音書が、この奇跡を必ず記していることから考えると、キリストが行った奇跡の中でも、人々の心に残る大きな奇跡であったということができるかもしれません。
もっとも四つの福音書が共通して取り上げているとはいえ、それを記す福音書記者たちには、それぞれの取り上げ方があって、皆が同じように記している、というわけではありません。
ただ共通していることは、五千という人数に対して、五つのパンと二匹の魚しかなかったこと。しかし、キリストが分け与えると、人々は十分に食べて、なお余りのパンが十二のかごにいっぱいになったということです。
ヨハネによる福音書は、この食べ物を分け与える奇跡と、そのあとに続く命のパンをめぐるキリストの話とを6章全体を割いて記しています。6章全体を通して、永遠の命を与える天からのパンであるキリストが描き出されています。
さて、きょうは、食べ物を与える奇跡そのものを描いた箇所をまず見てみたいと思います。
先ほども触れたとおり、この同じ奇跡を扱うヨハネ福音書には、ほかの福音書にはないいくつかの特徴があります。
まず、ヨハネ福音書は、この奇跡を過越祭が近づいた頃の出来事として描いています(ヨハネ6:4)。5章からのつながりを考えると、すこし戸惑うかもしれません。すでに学んだとおり、5章の冒頭でもユダヤ人の祭りのことが言及されています。そうすると、イエス・キリストはそのユダヤ人の祭りを終えて、いったんガリラヤに戻り、今、再び過越祭がちかづいてきたということになります。
もっとも、福音書記者が出来事の順番をどれほど厳密に並べていたのか、ということはそれほど重要ではないようにも思われます。むしろ、5章とのつながりで着目すべき点は、大勢の群衆がキリストの後を追ってきたのは、病人たちになさったしるしを見たからだとしている点です。
ヨハネによる福音書が病人の癒しについて記しているのは、ここまでに具体的には二つの例しかありません。直前の5章にはベトザタ池のほとりにいた病人の癒しのことを記しています。また、その直前には、役人の息子が病で死にかかっていたのを言葉だけで癒された奇跡を描きました。
もちろん、ほかにも書かれてはいないたくさんの病人の癒しの奇跡があったはずです(ヨハネ21:25)。そうしたしるしを見た群衆が、今やイエス・キリストの後を追って来るようになります。
しるしを見てキリストに従うということ自体は、必ずしも否定的に評価すべきことではないでしょう。ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えたとき、弟子たちはそれを見て、キリストを信じたとあります(ヨハネ2:11)。また、病気の息子を癒された家族も、そのしるしを通して、イエスを信じるようになりました(4:53)。ただし、6章全体を読むと明らかなとおり、イエスに従って来た群衆は、イエスの話に耐えられなくなって、やがてはキリストから離れて行ってしまいます。
さらにヨハネ福音書がこの奇跡を描くときに、ほかの福音書と違っている点は、イエス・キリストご自身から、群衆たちの食べ物を気遣われたという点です。ほかの福音書では弟子たちが食べ物のことを心配し、群衆を早く解散させてほしいとキリストに願い出ます(マルコ6:35)。
ヨハネ福音書はこの奇跡が行われたのは、キリストが最初から望んで行われたことだ、ということを強調しています。
そして、ほかの福音書がしるしていないもっとも大きな違いは、五千人を養うことになる五つのパンと二匹の魚の出所を記している点です。それは少年の持ち物であったと記されています。
そのとき、わずかの食料を持っていた人はほかにもいたかもしれません。しかし、この少年が五つのパンと二匹の魚を差し出したからこそ、それを幾倍にも増やすことができたのです。
弟子たちの評価は、それだけではこんなに大勢の人では、何の役にも立たないというものでした(ヨハネ6:9)。しかし、主イエスは、少年が差し出したわずかなものを祝福して豊かに用いてくださったのです。
残念なことに、この奇跡を見た群衆は、イエスを命のパンを与える救い主としてではなく、自分たちを治める現実の王としてしか見ることができなかったということです。このしるしの中に何を見、それを通してキリストのうちに何を見るのか、その信仰が問われているのではないでしょうか。