2014年4月3日(木)命の主であるイエス(ヨハネ4:43-54)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
絶望的という言葉があります。あらゆる望みが途絶えてしまい、もはや何も希望がないような状態を指して使います。こうなってしまうと、無気力にさえなってしまいます。少しでも望みがあれば、必死になることもできます。しかし、絶望的になると、もう何かをしようという気持ちさえ湧いてきません。
きょう取り上げようとしている個所には、38年もの間病に苦しんできた人が登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 5章1節〜9節前半までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
きょうの話の舞台は、再びエルサレムです。ユダヤ人の祭りのために、イエス・キリストはエルサレムに上ります。ここには具体的な祭りの名前は記されていませんが、ユダヤ人の律法の書には、エルサレムに上って祝うべき大きな祭りが三つありました(申命記16:16)。
祭りというのは、どこの世界でもそうだと思いますが、多くの人でにぎわいます。しかも、人々はわくわくするような楽しい気持ちで祭りの時を迎えます。
ところが、きょうの舞台となるのは、そんな浮かれた気分の人たちとは、まったく別世界のような場所です。エルサレムの城壁の門の一つ、羊の門の傍らにあるベトザタ池での話です。
ここには五つの回廊がありました。回廊には病を患う人、体に障害のある人たちが大勢横たわっています。皆、一つのことを望んでいました。それは病を癒されて、元気になって帰ることです。
もちろん、そういう希望がすぐにでもかなえられるのであれば、この場所も明るい希望に満ちた場所だったでしょう。しかし、そうではありませんでした。ここに集うほとんどの人たちにとっては、希望をくじかれる場所でした。というのは、この池の水が動くときに、真っ先に水の中に入る人だけが、癒されると言い伝えられていたからです。
その言い伝え自体が迷信であったかもしれません。迷信を信じて、ここで待ち続ける人たちは、空しい希望に騙されているとも言えます。しかし、迷信にでもすがらなければ、他に望みがない人たちであるとすれば、それを決して嘲笑ってはいけません。
しかし、もし、仮に水が動いたとしても、なお、絶望的なことがありました。それは、その時に最初に池に入った者だけが、癒されるという過酷な競争があったからです。この小さな池の周りも、広い世の中と同じように、競争の社会です。人を押しのけて池に入らなければ、癒しを獲得することができないのです。
病気の人は病気の人同士、病気の苦しみを知って、互いに同情しあうものと、期待することはできません。誰も順番など守ってはくれません。譲り合ったりもしてくれません。ここでは、我先にと人を押しのけてこそ、救われる世界です。
そうした人々の中にいたのが、38年、病を患う一人の男でした。38年というのは、この時代のことを考えれば、生涯のほとんどを病を背負って生きてきたというのに等しいことです。一体、いつからこの池のほとりに来ているのかは分かりません。ただ一つ確実に言えることは、今まで一度も一番に池に入ることができなかったということです。
最初は希望に満ちてこここにやって来たことでしょう。しかし、ここでの現実を知った彼には、希望も失われてしまった様子です。
イエス・キリストから「良くなりたいか」と尋ねられて、即座に自分の気持ちを素直に伝えることができませんでした。良くなりたい、という思いよりも、どうして良くなることができないのか、絶望的な気持ちを述べるのが精一杯です。それほどに落胆した思いで時を過ごしてきたということでしょう。
自分が今まで味わってきた病気であることの苦しみに加えて、誰からも関心を抱いてもらえない苦しみが追い打ちをかけました。
それにしても、誰が見ても苦しみのどん底にあるようなこの人に対して、どうしてイエス・キリストは「良くなりたいのか」と問いかけられたのでしょうか。聞くまでもなく、治りたいからこそ、このベトザタ池のほとりに来ているのは、分かり切ったことです。
けれども、このキリストの問いかけには、少なくとも二つの意味があります。
一つは、この人に対して、イエス・キリストが誰よりも関心を抱いてくださっている、という意思を表わしています。確かに治りたいからこそ、ここにきていることは分かり切ったことかもしれません。しかし、誰もがそのことを問わないうちに、この池の周りに横たわる人たちが、もう、一つの風景のようになってしまっているのです。だれも、あえて何かを尋ねようとする関心がありません。
しかし、キリストは違いました。分かりきったことでも、いえ、分かり切ったことと思いこんで、実は人々の関心から消えていたことを、キリストは敢えてお尋ねになったのです。イエス・キリストは人々の関心から消え失せようとしている小さな者に対しても、関心を寄せてくださるお方です。
イエス・キリストがこのことをお尋ねになったのは、他にも意味が考えられます。
それは、長年失意のうちにあったこの人に、何のために自分がここに来ているのか、もう一度、考える機会を与えたということです。もちろん、病が癒されるためにここにきているのは言うまでもありません。しかし、忘れかけていたそのことを思いだすことが大切です。
人は現状を変えることができなければ、次第に諦めの気持ちが支配してしまいます。もちろん、現実を受け入れることができるのであれば、諦めることも大切かもしれません。しかし、救われる希望を簡単にあきらめてはならないことを、キリストの問いかけは、わたしたちに教えているように思います。なぜなら、人には希望がなくても、神がそれを実現してくださるからです。
このキリストの問いかけは、希望を見失っている私たちの心を神の救いへと向けさせて下さいます。