2014年3月20日(木)既に刈入れの時が(ヨハネ4:31-38)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
どんなことでもそうだと思いますが、自分一人で何もかもできるということは、まずないと思います。一見、自分ですべてを一手に引き受けてやっているようでも、そうなるまでに、周りの人たちが築き上げてきた事柄というものがあります。
たとえば、教会の伝道もそうです。今わたしたちが立っているスタートラインそのものが、先人たちの努力の上に成り立っています。不毛な中で一生懸命に福音を伝えてきた人たちがいます。また、キリスト教の精神に立って学校教育や社会福祉活動、医療活動を続けて、ひろくキリスト教への理解を広げていった人たちがいます。そうした人々がいたからこそ、今わたしたちが立つことのできるスタートラインがあります。
そして、人間的に見れば、たまたまとしか思えないような不思議な巡り合わせで、収穫の時に居合わせる自分がおり、自分で蒔いたのでもない収穫物に与るということがおこります。
そのことはキリストとともに時を過ごしてきた弟子たちについても同じことが言えます。弟子たちが特別な存在だったから、大きな働きをなすことが出来たというわけではありません。ただ神の憐れみによってこの機会を得、歴史のこの時に置かれたとしか言いようがありません。きょうはそうした弟子たちとキリストとの会話から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 4章31節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ4か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
今まで三回にわたって、サマリアの女とイエス・キリストとの会話を学んできました。きょう取り上げるのは、その一連の話に挟まれた部分に出てくる、キリストと弟子たちとの会話です。
今まで学んできた、サマリアの女とイエス・キリストとの会話は、弟子たちが昼の食事を調達している間になされたものでした。弟子たちが戻ってくると同時に、サマリアの女は町に戻って、自分が体験したことを町の人たちに伝えます。
今日取り上げた個所は、サマリアの女がいなくなった後、弟子たちがキリストに食事を勧めるところから始まります。
ところで、ヨハネによる福音書の4章全体を見渡すと、きょう取り上げた個所は、ある意味、記録に留めなくてもよさそうな内容です。というのも、4章全体が扱っているのは、サマリアの女とイエスとの会話が中心だからです。この女の証言がきっかけで、サマリアの町の人々がキリストを信じるようになったという結果が記されれば、4章の内容はほぼ完結していると考えることができるからです。
出かけた弟子たちが戻ってきてもこなくても、話としては成立しています。
しかし、それを敢えて記しているのには、やはり後世に残したいメッセージがこの弟子たちとの会話にはあったからでしょう。
食事を勧める弟子たちに、キリストはこうお答えになります。
「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」
その意味は、弟子たちが推測したのとは違って、比喩的なものでした。つまり、イエス・キリストの食べ物とは、お遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることだったのです。
イエス・キリストは、サマリアの女に対しては、飲み水のことをきっかけに、永遠の命に至る水の話をなさいましたが、今度は弟子たちに対しては、食べ物のことをきっかけに、神の御旨に従って生きることの大切さを語ります。
これは、キリストが教えた新しい教えというわけではありません。旧約の時代にも、神はイスラエルの人々に対して、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」ことを教えられました(申命記8:3)。
神の言葉というのは、神の御心がそこに表れている言葉です。それによって生きる、というのは、ただその言葉を耳にするということではありません。神の言葉によって生きるとは、神の御心への服従を含みます。そうして初めて人は生きることができるのです。
イエス・キリストもまた、この神の言葉に従順に従って生きました。神の御心を行い、その業を成し遂げること、そのことこそがキリストの食べ物だったのです。
ところで、イエス・キリストは、何が神の御心であるのかを具体的にはおっしゃいません。しかし、4章の文脈が示していることは、サマリアの女と会話すること、つまり、ユダヤ人から見れば呪われたようなこの民に福音を伝えることもまた、神の御心だということです。
サマリアの女と会話をするキリストを見て、怪訝な顔をする弟子たちに、まさに神の御心がどこにあるのかをキリストはお示しになっていらっしゃると考えることができるでしょう。
そればかりではありません。弟子たちとの会話の中で、キリストは、今が収穫の時であることを弟子たちに伝えています。収穫という言葉は、しばしば、世の終わりや最後の審判の比喩として使われる言葉です。
キリストの目には、収穫の時が今まさに到来しています。弟子たちは、それに気がついてはいなかったでしょう。しかも、サマリアのこの地でキリストは、「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」とおっしゃっています。しかしそう言われても、ピンとくる弟子たちはいなかったかもしれません。
しかし、キリストは弟子たちが種をまいたのでもないこの土地で、信仰が実るその時が来ていることを告げています。
ヨハネによる福音書は、ユダヤ人ではない者たちの信仰の実りが、実は神の深い御心であることを力強く語っているのです。