2014年2月27日(木)永遠の命に至る水(ヨハネ4:1-15)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 心の渇きというものは、誰にでもあるものです。それは喉の渇きが誰にでもあるのと同じです。しかし、心の渇きはいろいろなものによってまぎらわすことができるために、心の渇きに気がつくことはまれかもしれません。
 きょう取り上げようとしている個所には、一人の女性が登場します。この人にも心の渇きがありました。それはイエス・キリストとの会話の中でだんだんと明らかにされていきます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 4章1節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、…洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである…ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 きょうから数回にわたって、サマリアの女とイエス・キリストとの会話から学びたいと思います。
 イエス・キリストがサマリアの町を通られたのは、人間的な目から見れば、たまたまの出来事であったように思われます。しかし、ヨハネによる福音書は、「サマリアを通らねばならなかった」と記して、そこに必然的な理由があったことを暗示しています。ただ、ヨハネによる福音書はその理由が何であったかを具体的には記してはいません。人間的な諸事情によってサマリアを通らなければならなかった、というよりは、神の側の必然性によって、サマリアをわざわざ通られたということでしょう。

 ヨハネによる福音書が記しているとおり、ユダヤ人はサマリア人とは交際しないことになっていました。わざわざそんなところを通って、ユダヤからガリラヤに向かう必然性は普通は考えられないでしょう。けれども、ユダヤ人たちから見れば呪われたようなこのサマリア人のところへ、キリストはわざわざ立ち寄られたのです。それはこの後で登場する一人のサマリア人の女性と出会うためだったのです。

 さて、シカルの町にあるヤコブの井戸のかたわらで、イエス・キリストは一休みしておられました。弟子たちは食べ物を調達しに出かけていたので、その場にはおりませんでした(ヨハネ4:8,27,31)。
 と、そこへ、一人のサマリア人の女が井戸に水を汲みにやってきました。正午ごろのことですから、丁度日が照りつける頃です。井戸に水を汲みに来るのは、日差しの強い昼の日中を、普通は避けるものです。それが証拠に、この場に居合わせたのは、イエス・キリストとサマリアの女だけでした。誰もが水汲みを避ける時間帯です。

 しかし、逆に言えば、この女には都合の良い時間だったということでしょう。できることなら、この女も他の人たちと同じように、もっと過ごしやすい時間に井戸へやって来たかったに違いありません。しかし、そうできない事情があったのです。
 来週取り上げる個所に記されていることですが、この女には五人の夫がおりました。しかも、今連れ添っているのは、夫ではないといういわくのある女性です。人前に出れば、何かと噂され、後ろ指を指されることは目に見えています。そんなことがあったからでしょうか、人と顔を合わさなくてもすむ、この時間をわざわざ選んで、水を汲みに来たのでしょう。

 普段なら誰にも遇わずに水を汲んで、家に戻るはずが、この日は違いました。一人の男が井戸端に座り込んでいます。イエス・キリストです。

 キリストは女を見ると、水を飲ませてくれるようにと所望します。サマリアの女にとっては二重の驚きです。だれもいないはずのこの時間に人がいたこと、そして何よりも驚きだったのは、この水を求める男が、ユダヤ人であったということです。宗教的な理由で付き合いのないはずのユダヤ人が、水を求めてくるとは、なんという驚きでしょう。

 しかし、イエス・キリストがこの女に水をお求めになったのは、話のきっかけを得るためだったことが分かります。井戸の水をきっかけに、永遠の命に至る水のことを、キリストはお語りになりたかったのです。しかも、ユダヤ人相手にではなく、ユダヤ人からすれば救いとはおよそ無関係と思われるサマリア人の、しかも、罪深いと噂される女を相手にです。

 キリストにとって、永遠の命に至る水を必要としているのは、ユダヤ人ばかりではありません。罪の中にいるすべての人がそうなのです。

 「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

 しかし、この二人の会話はしばらくすれ違います。キリストが語る「生きた水」というのは、比ゆ的な意味であるのに対して、サマリアの女が考えたのは文字通りの「生きた水」のことでした。ヘブライ語では、溜まって淀んだ、飲み水に適さない水に対して、「生きた水」と言えば、湧き出る新鮮な水を指したからです。

 だからこそ、水を汲む道具もないこの男が、いったいどこからその水を得てくるのか、この女には疑問で仕方ありません。

 けれども、キリストが、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と解き明かされると、すぐさま、その水の話に飛びつきます。
 もちろん、このキリストのおっしゃることを、この女がどれほど深く理解したかには疑問が残ります。しかし、イエス・キリストはこの求道する心を決して軽んじたりはなさいません。初めから全部わかる人などいないからです。いえ、イエス・キリストがこの人と出会われたからです。