2014年2月13日(木)あの方は栄え、わたしは衰える(ヨハネ3:22-30)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
誰にでも、自分に与えられた生きる道があります。人はそれを運命とか宿命という言葉で言い表すことがあります。しかし、運命や宿命という言葉には、どうしても悲観的な響きがあります。もし、人生を悲観的にしか捉えられないとすれば、生きる意味すら見失ってしまいます。
もちろん、自分を簡単に変えることができるのであれば、だれも、運命や宿命などという発想を持たないでしょう。変えることができないものがあるというのは、やはり認めざるを得ません。しかし、それを運命のいたずらととるか、それとも、そこにも神の愛を信じるかで、人生への取り組みはまったく違ったものになるはずです。
きょう取り上げる個所には、自分に与えられた使命をしっかりと受け止めている洗礼者ヨハネの姿が描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 3章22節〜30節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
きょうの個所は、洗礼者ヨハネがまだ投獄される前の出来事であったとわざわざ記されています。他の三つの福音書には記されていないエピソードです。というのも、他の三つの福音書は、洗礼者ヨハネが投獄されてから後の、イエス・キリストの活動を主に描いているからです(マタイ4:12、マルコ1:14、ルカ3:19-20)。
最初の三つの福音書を読む限り、洗礼者ヨハネの活動とイエス・キリストの活動は、時間的に前後する活動で、両者はほとんど重ならないような印象を受けます。ちょうどバトンを引き渡されたように、洗礼者ヨハネによる神の国の宣教活動が牢に投獄されることで終わり、同じ活動がイエスによって引き継がれたようなイメージです。
しかし、ヨハネによる福音書を読むと、両者が重複して活動する期間があったことが分かります。イエスとその弟子たちはユダヤ地方で活動し、洗礼者ヨハネはヨルダン川の向こう側ベタニアから活動場所をサリムの近くのアイノンへと移しています(ヨハネ1:29と3:23)。
ヨハネによる福音書はそれがまだヨハネが投獄される前の出来事であったと記しています。
そのころ、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人の間で、清めのことについての論争が起こったと報告されます。おそらく、ヨハネの施していた洗礼と、ユダヤ人たちの清めのための沐浴の習慣(ヨハネ2:6参照)との関係が問題となったのかもしれません。
あるいは、そうではなく、ヨハネの施していた洗礼とイエス・キリストが施していた洗礼との関係が問題となっていたのかも知れません。
彼らは、さっそくヨハネのもとにいって、こう告げます。
「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
この報告から察すると、あるユダヤ人が持ち出した清めについての論争とは、イエス・キリストのグループの洗礼と洗礼者ヨハネの洗礼とを巡る問題であったかもしれません。
もっとも、ヨハネによる福音書は、後にこの報告を訂正して、イエス・キリストご自身が洗礼を授けていたのではなく、キリストの弟子たちが授けていたと報告しています(ヨハネ4:1-2)。
いずれにしても、それを聞いた洗礼者ヨハネの言葉が記されます。
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」(ヨハネ3:27)
洗礼者ヨハネが自分の使命について語るのは、これが初めてではありませんでした。エルサレムから遣わされた祭司やレビ人を前にして、ヨハネは自分がメシアであることをはっきりと否定して、自分よりもはるかに勝ったお方が、自分よりも後においでになることを証ししました(ヨハネ1:19-27)。
また、自分の弟子たちを前にして、神の小羊であるイエス・キリストを指さしながら、その人こそが自分に勝るお方で、水ではなく聖霊によって洗礼を授けるお方であることを証ししました(ヨハネ1:29-34)
ここでもまた、そのメッセージが変わることなく告げられます。つまり、自分には神から与えられた務めがあり、その務めを超えては何もすることができないこと、自分の務めはメシアそのものではなく、メシアの前を走る使いに過ぎないことをはっきりと告げます。
その上で、ヨハネは自分を花婿の介添え人に例えます。花婿の介添え人は、花婿自身ではありません。あくまでも主役は花婿です。
また、花婿の介添え人は、花嫁自身でもありませんから、花婿を迎える主役ではありません。花婿が登場し、花嫁を迎えれば、それで自分の役割は終わりです。しかし、そこには婚礼の喜びがあふれています。ヨハネは自分の役割をそう理解しているのです。
心配する自分の弟子たちに、ヨハネは自分の言葉をこう結びます。
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
自分の役割が終わることを認めることは、そう簡単なことではありません。大勢のユダヤ人を悔い改めに導き、洗礼を授けてきたヨハネにとって、いっそうそうであったことでしょう。
しかし、ヨハネは自分の務めをしっかりと理解していました。「わたしは衰えねばならない」と語るヨハネの言葉は、寂しげに聞こえるかもしれません。けれども、ヨハネは決して寂しい思いで、その言葉を口にしたのではありません。「わたしは喜びで満たされている」と語る洗礼者ヨハネの言葉は文字通り、キリストに仕える自分の務めを喜びとした言葉です。
さらにいうなら、この洗礼者ヨハネの働きを通して、キリストの花嫁として、花婿であるキリストと出会うことができたのです。