2014年2月6日(木)神は世を愛されて(ヨハネ3:16-21)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書は難しい、という声を耳にします。確かに辞書のように分厚い聖書を見ただけで、難しい書物という先入観が起きてしまいます。内容も、一度読んだだけでは覚えきれないほど様々です。最初から最後まで読んで、これだ、というポイントがつかめれば、もっと聖書は親しみやすい書物かもしれません。
ただもし、一言で聖書の福音を言い表すとすれば、まさにきょう取り上げようとしている個所ほど、キリスト教の核心を的確に伝えている個所は無いでしょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
今日取り上げた個所は、先週取り上げた、ニコデモとイエス・キリストとの会話の続きです。続きとは言いましたが、実は、3章10節から始まるイエス・キリストの言葉が、一体どこまで続くのか、はっきりとしません。
確かに翻訳された新共同訳聖書では、21節の終わりまでが、つまり、きょうお読みしたところすべてが、キリストの言葉として記されています。しかし、新約聖書の言語であるギリシア語の表記には、かぎ括弧のしるしがついているわけではありません。どこからどこまでがキリストの台詞であるのかは、翻訳者の解釈ということができます。
もし興味がおありでしたら、ぜひいくつかの翻訳聖書で、その部分が誰の言葉として記されているか読み比べてみてください。翻訳によっては、きょう取り上げた部分はキリストの言葉ではなく、ヨハネ福音書記者の言葉として記されている翻訳聖書もあります。ただ、きょうはこの問題にはこれ以上踏み込みません。
さて、今日取り上げた個所の冒頭で述べられていることは、「神は世を愛された」という救いの希望です。
この福音書の冒頭で、「世」という言葉が登場するときに、この「世」は言である御子キリストによって存在させられた「世」でありながら、同時にその言を認めない「世」でした。そういうものとして、この「世」という言葉がこの福音書の中に登場しました(ヨハネ1:10)。
次に「世」という言葉がこの福音書の中に登場するのは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という洗礼者ヨハネの言葉の中に出てきます(ヨハネ1:29)。この世には取り除かれなければならない罪があり、その罪を取り除くお方として、神の小羊であるキリストが紹介されます。
では、神は言である御子キリストを認めないこの世を憎み、取り除かれなければならない罪を抱えたこの世を退けようとなさっているのでしょうか。
きょうの個所には、はっきりと「神は世を愛された」と記されています。神の救いは、罪に滅びゆくこの世に対する「神の愛」から生じているのです。神がこの世を愛されなかったとすれば、誰一人として、救いにあずかることはできません。
ちなみに、「愛」という言葉がこの福音書に最初に登場するのは、まさにこの個所が初めてです。罪に滅びるこの世に対する神の愛、この愛こそが、救いを実現へと至らせる力です。
それでは、神はこの世をどのように愛されたのでしょうか。ヨハネによる福音書は「その独り子をお与えになったほどに」と記しています。既にこの福音書では、神の子イエス・キリストを「世の罪を取り除く神の小羊」として紹介してきました。この小羊は神がお遣わしになった独り子イエス・キリストご自身です。
ただ、旧約聖書の小羊は儀式のたびに新しい小羊が群れの中から聖別されて献げられました。それは替えがいくらでもいる小羊です。しかし、神がお与えになった小羊は、神ご自身の御子であり、しかも、たったひとりの子なのです。
その独り子であるイエスをこの世にお遣わしになったことの中に、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さが表れているのです。
後に、ヨハネの手紙の著者は、こう記しています。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)
神が愛であるなら、なぜこの世界に不幸が起こるのか、という疑問を耳にします。確かに神が愛であるなら、悲惨なこの世を目にすることはないはずです。しかし、そうなのではありません。この世の悲惨は、神の愛の欠如から生じているのではありません。この世の悲惨は人類の罪の結果なのです。この悲惨の状態をいくら眺めても、そこには神の愛を見いだすことはできません。そうではなく、この悲惨な世を救おうと、罪の償いのために独り子をお遣わしになった神の行動の中にこそ、神の愛がもっとも鮮やかに示されているのです。この遣わされてきた独り子イエスを他にして、どこを探しても神の愛に出会うことはできません。
さて、ご自分のたった一人の御子をこの世にお与えになるほどの神の愛を語ったあと、その御子を世にお与えになったその目的をヨハネ福音書はこう記します。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
御子が世に遣わされたのは、裁きのため、滅びのためではなく、救いのため、永遠の命を得るためであるとヨハネ福音書は言います。ただし、それは遣わされてきた独り子を信じる者の救いです。だれでも御子キリストを信じる者には、永遠の命が約束されているのです。
では、この福音の言葉には裁きが語られないのでしょうか。そうではありません。
「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
聖書には最後の審判の裁きが語られています。この福音書の中にももちろん、最後の審判があることが語られています(ヨハネ5:29)。しかし、このヨハネ福音書の3章18節にはそれとは違った裁きが描かれています。
確かに人は自分の犯した罪の結果、最後の審判で判決を言い渡されます。しかし、ここでは将来の裁きではなく、現在の裁きが語られているのです。御子を信じないこと、光の方へ来ようとせず、闇にとどまっていること、そのこと自体が裁きであるとヨハネは語っています。
しかし、この悲惨さからこそ、救われるために、神はこの世を愛し、独り子イエス・キリストをお遣わしくださったのです。