2014年1月30日(木)新しく生れる(ヨハネ2:23-3:15)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 目で見えるもの、手で触ることのできるもの、そうしたものについては、だれでもよく知っています。しかし、目には見えなかったり、手で直接触れることのできないものというのは、中々理解するのが難しいものです。
 今日登場するニコデモとキリストとの会話は、目に見えない世界についての問答です。そのために二人の会話はなかなかかみ合いません。


 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 2章23節〜3章15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 前回は、過越祭にやってきたイエス・キリストが、宮の境内で商売をしていた人々を追い出して、神殿を清めた話を学びました。今回は、まずこの過越祭での出来事をまとめた記事から取り上げます。
 次に続く3章のニコデモの話は、同じ過越祭の時の出来事かどうかは必ずしも明白ではありません。しかし、ニコデモがユダヤ最高法院の議員であったとすれば、話の舞台は同じエルサレムで、過越祭から続く出来事であったと思われます。

 さて、2章の最後に置かれた段落によれば、過越祭の間、イエスはエルサレムで数々のしるしを行いました。その結果、多くの人々がイエスを信じるようになったと報告されます。ところが、イエスの側では、彼らを信用しなかったとあります。
 同じ2章の前半にはカナでの婚礼の際に、弟子たちはイエスが行った最初のしるしによって、イエスを信じたと報告されました(ヨハネ2:11)。しかし、同じ「信じる」といっても弟子たちと民衆との間には違いがありました。エルサレムの民衆に対しては、イエスは信用されなかったのです。
 その理由は明らかに記されてはいませんが、少なくともイエス・キリストには彼らの心の中が分かっていたので、彼らを信用できない確かな理由があったのです。

 そのような人々の中から、イエスのもとにやってきたのが3章に登場するニコデモです。このニコデモはファリサイ派に属し、ユダヤ人の議員でした。ですから、ユダヤ教の教えを厳格に守り、議員として人々からの信頼も厚かったはずです。
 そして、何よりも、他のファリサイ派の議員たちとは違って、イエスのもとに教えを求めてやってきたのですから、イエス・キリストに対して、何らかの信頼を寄せていたといってよいでしょう。ニコデモがイエスを訪ねてやってきたのは、決してイエスを試そうという不純な動機からではなさそうです。

 ただ、ニコデモがイエスを訪ねてやってきたのは、夜であったと記されています(ヨハネ3:2, 19:39)。ニコデモにも白昼人目をはばからずにイエス・キリストを訪ねる勇気はなかったようです。キリストに対する確信は、そこまででもなかったからでしょう。

 もちろん、ヨハネ福音書全体を読み進めると、この時のニコデモと十字架にかかったイエスの遺体を引き取りに来るニコデモとでは、イエスに対する信頼の度合いは格段に違うように感じられます(3:2, 7:50ff, 19:39-40参照)。ただ、きょう取り上げる個所のニコデモには、キリストに対する信仰の芽生えはあったとしても、キリストの目にはまだまだあやふやな信仰と見えたに違いありません。

 さて、ニコデモが夜イエスを訪ねてきたのは、神の国についての疑問を解決したかったからです。もちろん、ヨハネの記事にはニコデモの側から質問を投げかけたことは記されていません。ニコデモではなく、イエス・キリストの側から、神の国の話題を提供しています。しかし、他の福音書の記事でもそうですが、当時のユダヤ人の典型的な話題の一つは、永遠の命の問題や、神の国の入国資格の問題でした。ですから、ニコデモもこのことを知りたくてイエス・キリストのもとを訪ねてきたのでしょう、

 イエス・キリストは単刀直入に「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいます。
 それに対して、ニコデモの受け答えはかみ合いません。なぜなら、ニコデモはキリストの言葉を文字通りに受け取って、新たに生れるとは、母の胎内にもういちど入りなおして生れることと理解したからです。

 もちろん、イエス・キリストがおっしゃりたかったことはそういうことではありませんでした。キリストがおっしゃる新たな生まれというのは、聖霊の働きによって、霊的に生まれ変わるという意味だからです。
 その主導権は人間の側にあるのではなく、ちょうど風が思いのままに吹くように、予測することができない聖霊の自由な働きによるのです。

 それに加えて、イエス・キリストはもう一つ大切なことをおっしゃいました。

 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 聖霊は人を新たに生まれ変わらせることができますが、人が神の国に入って永遠の命を得るには、大きな前提があります。それは、キリストが十字架の上で罪を贖う救いの業を成し遂げてくださるということです。この贖い主キリストを信じるようにと、聖霊はわたしたちの心を造り変えてくださるのです。