2014年1月9日(木)もっと偉大なことを見る(ヨハネ1:43-51)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 ヨハネによる福音書には、所々に謎めいた言葉が出てきます。きょう取り上げる個所にも、人の子の上に天使たちが昇り降りするという、キリストの預言が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 1章43節〜51節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 先週に引き続き、ヨハネによる福音書は最初の弟子たちのことを扱います。前回は洗礼者ヨハネの弟子の中から、二人の弟子がイエス・キリストについて行く様子を学びました。そのうちの一人はアンデレで、アンデレは自分の兄弟ペトロに自分が出会ったイエス・キリストを紹介します。
 きょうはフィリポとナタナエルがキリストによって弟子として召し出される場面です。フィリポは他の福音書にも弟子として名前が記されている人物ですが、ナタナエルはこの福音書だけに登場する人物です。

 まずフィリポについて見てみましょう。前回取り上げたアンデレともう一人の弟子とは違って、フィリポはイエス御自身によって直接召し出されます。
 「わたしに従いなさい」というイエスの言葉によって、フィリポは直接召し出されています。
 フィリポはアンデレとペトロと同じ町、ベトサイダの出身であるといわれていますから、先にイエスの弟子となったペトロとアンデレの兄弟とどこかでつながっていたのかもしれません。ちなみにこのベトサイダという町はガリラヤ湖の北岸に注ぎ込むヨルダン川より東側に位置する町で、「漁夫の家」というのが、その町の名前の意味です。

 ヨハネによる福音書では、他の三つの福音書のように、イエス・キリストから召し出された者が、すべてを捨ててただちにイエスに従って行った、というような様子を書きしるしません。むしろ、そのことは書くまでもない前提となっているのでしょう。そのかわり、前回学んだように、イエスの弟子として召し出された者は、自分の身近な者にイエス・キリストを紹介するという特徴があります。
 フィリポも自分の知人ナタナエルに…聖書には知人とは書いてありませんが、ナタナエルは見ず知らずの人ではなかったでしょう…。このナタナエルに出会ったばかりのキリストを紹介します。

 「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

 フィリポは「メシア」という言葉を敢えて使ってはいませんが、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」という表現でそのことをナタナエルに伝えています。そして、この表現には、自分が出会ったメシアなるお方が、律法と預言とに支えられた正統なメシアという含みがあります。
 しかも、フィリポは「わたしは」とは言わずに「わたしたちは」という言い方をしています。これは単にフィリポの個人的な見解をナタナエルに伝えているのではなく、「わたしたち」という言葉の背景には、イエスの弟子たちの存在が意識された言葉です。

 もっとも、四つの福音書全体を読むと分かる通り、弟子たちがイエスをメシアだと告白するのは、もっと後になってからのことです(マルコ8:27-30)。しかし、この時でさえ、神がお遣わしになったメシアの意味を、弟子たちが正しく理解していたとは言えません。苦難や復活を予告するイエス・キリストの言葉の前に、困惑してしまう弟子たちです(マルコ8:31-33)。

 そういう意味では、ここでもフィリポや他の弟子たちがイエスをどう理解していたのかは、覚束ないものがあったでしょう。ただ、そうであったとしても、ヨハネによる福音書は、すべてが明らかになった後でこの福音書を書いていますから、読者に対して、メシアであるキリストを、フィリポの口を通して紹介しているとも考えることができるでしょう。

 ところで、フィリポがメシアを紹介したナタナエルという弟子は、他の三つの福音書には名前が出てきません。しかも、この福音書自体にも、この個所以外には、たったの一度しか名前が出てこない人物です(ヨハネ21:2)。

 そのために、ナタナエルが実在の弟子なのかということさえ、疑問視する人たちもいます。たとえば、このナタナエルという名前の意味は、「神が与えた者」という意味であるために、この福音書に繰り返し登場する「父が与える者」という表現と重ねて、その名前に象徴的な意味を読みとろうとする人たちもいます。

 たとえば、6章37節には「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る」とキリストは語っています。あるいは17章24節には「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」と祈るキリストの言葉が記されています。いずれも、それは神が与えた者について語る個所で、ナタナエルという言葉を思い出させるものです。

 その象徴的な解釈はともあれ、このナタナエルにイエス・キリストがお語りになった言葉もまた象徴的です。

 「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」

 この福音書の中には、直接イエスの上に天使が昇り降りする様子を記した個所はありません。しかし、旧約聖書の創世記にはヤコブが見た夢の中に、天使たちが昇り降りする階段の夢が出てきます(創世記28章)。
 イエス・キリストだけが天から地上に差しのべられたまことの階段なのです。このお方だけが天に通じる道を開いてくださいます。イエス・キリストの弟子は、神から差しのべられたキリストを通して、天の恵みを豊かに受け取ることになるのです。