2013年12月12日(木)受肉したロゴス(ヨハネ1:10-18)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリシタン時代に日本で最初に演じられた西洋劇は、「アダムの堕落と贖罪の希望」と題したものでした。1560年のクリスマスに現在の大分市にあったカトリック教会で演じられました。その演劇を観た日本人の信者たちは、エデンの園を追放される場面で大人も子供も声を大きくして泣いたと報告されています。神と共に生きることができなくなったアダムとエバの話を、まるで自分のことのように受け止めていた当時のキリシタンたちのことを思います。
神のみもとから追放されること、これほど絶望的で恐ろしいことはありません。しかし、聖書全体を読めば、神が人間の救いのために、ご自身の方から人間ところへやってきた恵みが、ここかしこに記されています。その恵みの極みは、イエス・キリストを通して示されました。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 1章10節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
前回取り上げた個所には、「言」(ロゴス)であるキリストには命があり、その命は人間を照らす光であったと記されていました。そして、その光は闇の中に輝いている光であり、世に来てすべての人を照らすまことの光であるとヨハネ福音書は言っています。
では、神と共にいたロゴスが、どのような仕方で現実の世に登場するのでしょうか。きょう取り上げた個所にはそのことが記されています。
さて、きょう取り上げた個所のうち、14節からあとの部分は、ロゴスの受肉と呼ばれている有名な個所です。ロゴスが肉体となってこの世にやってきたことを語っています。マタイによる福音書やルカによる福音書とは違った形で、キリストの降誕を描いた個所です、
では、14節より前の部分は何について語っているのでしょうか。
10節では14節が語るロゴスの受肉に先だって、「言は世にあった」と記されます。これは受肉という歴史的な出来事が起こる前に、すでにロゴスはこの世に来ていた、という意味なのでしょうか。それとも、10節は14節の詳しい内容を先取りして述べているだけで、結局は同じ出来事を語っているのでしょうか。
おそらく「言は世にあった」と語る10節は、ロゴスが肉体となって来られる前に、肉体ではない形でこの世に存在していたことを語っているのでしょう。もしロゴスの受肉を語るのであれば、「世に来た」とでも言うべきで、「世にあった」という表現は適切ではありません。
すでに、3節で万物はロゴスによって成ったということが語られていました。10節ではこの世もまたこのロゴスによって成ったことが語られています。しかも、ロゴスによって存在が与えられたこの世は、それ以降ロゴスと無関係に存在し続けるのではなく、ロゴスが世のうちに存在してこれを支え導いているのです。10節が語っている「ロゴスは世にあった」というのは、そう言う意味でしょう。
そう言う意味では、ロゴスとこの世との間には密接な関係がすでにあったのです。そうであればこそ、後に出てくる通り、ロゴスであるキリストは、世の罪を取り除く救い主であり(1:29)、世の光であり(8:12)、神はその御子を賜るほどにこの世を愛されたのです(3:16)。
ところが、この世の方では、このロゴスを知らなかったとヨハネは記しています。知らなかったというのは単なる無知の結果ではありません。知らなかったと言うよりは、新共同訳聖書が翻訳しているように、「認めなかった」という方が正確でしょう。それは「暗闇は光を理解しなかった」と既に記されていたように(1:5)、罪が心の目を覆っていたからです。
11節ではさらに、ロゴスがご自分の民のところへ来たことが述べられます。一見、先ほどの10節で言われたことを、ただ繰り返しているように見えるかもしれません。しかし、11節ではこの世とは異なる、もっと狭い範囲の人たちのことが念頭に置かれています。
ヨハネ福音書全体を読むときに、この世との対立ということもさることながら、ユダヤ人との対立も鋭く描かれています。ご自分の民とは、この場合、神の契約の民であるイスラエルのことを指しています。神の言葉は、律法という形で確かに契約の民に与えられました。しかし、この律法を守らなかったという点で、イスラエルは神の言葉を受け入れなかったばかりか、律法と預言者が予告していたキリストご自身をも拒絶してしまいます。
しかし、もちろん、すべてのイスラエル人がそうだったのではありません。御子イエスの名を信じる者には、約束通り神の子となる資格が与えられたのです。しかし、それはイスラエルの子孫という血筋の問題ではなく、また、人間的な思いといったものに依存するのでもありませんでした。ただ神の主権的な恵みによったのです。
さて、ロゴスを認めないこの世と、ロゴスを受け入れない神の民イスラエルのことを語った後で、いよいよ肉体となってこの世に来られるロゴス・キリストをヨハネ福音書は語ります。それはヘブライ人への手紙の著者が「(神は)この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1:2)と記しているとおり、終わりの時代の最後的な神からの啓示といってもよいものです。
ここでヨハネによる福音書は、「言は肉となって、私たちのところへやって来た」とは言わないで、「宿った」という言葉を使っています。正確には天幕を張って住まわれるという意味です。肉体をまとわれたロゴス・キリストは、かつて神が幕屋を通してイスラエルのうちに住まわれたように、ご自身を通して神のご臨在を人々の間に体現したのです。
マタイによる福音書では、遣わされてくるメシアの名は「インマヌエル」、つまり、「神は我々と共におられる」という名が与えられたことが記されています(マタイ1:23)。このヨハネによる福音書は、幕屋や神殿を通して象徴的に表してきた、神の民のうちに共に住んでくださる主なる神の姿を、受肉したロゴスの内に見ているのです。
受肉してわたしたちのうちに住んでくださるイエス・キリストだけが、父なる神を完全に表し、このお方だけが、豊かな恵みを信じる者の上に注ぐことができるお方なのです。