2013年11月28日(木)はじめにことばがあった(ヨハネ1:1-5)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今週からヨハネによる福音書を取り上げて、学びたいと思います。新約聖書の中には四つの福音書がありますが、ヨハネによる福音書は他の三つの福音書と比べて、独特な内容を持っています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書 ヨハネによる福音書 1章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
四つの福音書には、それぞれイエス・キリストの教えと御業が記されています。マタイによる福音書とルカによる福音書は、イエス・キリスト降誕の次第から筆を始めています。マルコによる福音書はキリストの誕生については一切触れずに、洗礼者ヨハネの登場から描き始めています。
それらの福音書に対して、ヨハネによる福音書は、イエス・キリストが人としてこの世にお生まれになる遥か永遠の昔にさかのぼって、このお方がどんなお方であるのか、読者に紹介しています。
ヨハネによる福音書の書き出しは、とてもシンプルですが、印象的な短い文で綴られています。
「初めに言があった」
この書き出しの言葉は、しばしば指摘されているように、旧約聖書の最初の書物、創世記の冒頭を思い出させます。「初めに、神は天地を創造された」と語り出す創世記に対して、ヨハネによる福音書は「初めに言があった」と語っています。初めに天地が造られたとき、すでに言が存在し、万物がこの言によって成ったと告げています。このお方は万物に先だって存在するお方なのです。
そのお方を、ヨハネ福音書は「ロゴス」(言)として読者に紹介します。少し奇妙に思われるかもしれませんが、このヨハネによる福音書は、第1章の出だし部分では、イエス・キリストのことを「ロゴス」として紹介していますが、それ以降、一度もキリストをロゴスとして描くことはありません。聖書全体を見渡してみても、神の御子イエス・キリストがロゴスである、という表現はヨハネ福音書を除いてどこにも見当たりません(「命のロゴス」1ヨハネ1:1、「神のロゴス」黙示録19:13など、修飾語を伴う例はあるが、ロゴス単独でキリストを紹介する例はない)。確かに、御子イエス・キリストが神と等しいお方であること(フィリピ2:6、ヘブライ1:3)や、万物に先だって生まれたこと(コロサイ1:15)、万物は御子によって創造されたこと(コロサイ1:15、ヘブライ1:2)などは新約聖書の他の箇所にも記されています。しかし、御子イエス・キリストがロゴスであるとは、聖書の他の箇所には見いだせない表現です。つまり、キリストがロゴスであるという紹介の仕方は、聖書全体の中で非常に珍しいばかりでなく、ヨハネ福音書自体も、冒頭部分でしか使わない非常に特殊な紹介の仕方ということです。
ところで、イエスというお方を紹介するときに、「神の御子」という紹介の仕方もあれば、「キリスト」「メシア」という紹介の仕方もできるはずです。しかし、ヨハネ福音書は敢えて、それらの言葉を用いないで、何の説明もなく「ロゴス」という言葉を使っています。
この「ロゴス」という単語そのものの使われ方は、聖書の中に限って言えば「言葉」という意味です。人が言った「言葉」という場合にも用いられる一般的な単語です(マタイ12:26-37)。もちろん、神の「言葉」という場合にも、この「ロゴス」という単語が使われます(使徒言行録4:31、ローマ9:6)。
聖書以外の場所では、たとえばストア派の哲学によって、神の定めた世界の秩序だった論理という意味で用いられています。それはやがて神と等しいものとさえ考えられるようになりました。
しかし、ヨハネによる福音書がそうした哲学的な用語を使って、イエス・キリストを読者に紹介しようとしたとは思えません。むしろ、神の言葉としてのキリストを読者に伝えたかったのでしょう。
先ほども指摘しましたが、ヨハネ福音書の冒頭は創世記の冒頭を思わせます。創世記では、神の言葉が万物を存在させます。そのようにヨハネ福音書もまた、万物はこのロゴスであるお方によって成ったと伝えているのです。
御子イエス・キリストと万物とのこのような関係は、ヨハネ福音書だけが伝えていることではありません。コロサイの信徒への手紙1章15節やヘブライ人への手紙の1章2節にも見られる信仰です。ただ、それらの箇所では、ロゴスという言葉が用いられませんが、ヨハネ福書は、御子としてのキリストを紹介する前に、神の言葉としての(ロゴスとしての)キリストを紹介し、万物との関係を明らかにしているのです。
ところで、ヨハネ福音書はこのお方をロゴスとして紹介しますが、ロゴスと万物との関係よりも重大なこととして、まず、ロゴスと神との関係を明らかにします。この場合の「神」というのは、後に明らかになるように、「御子」に対して「父」としての神です。後の時代に成立した三位一体の教理をここにすべて読み込むことはできませんが、しかし、後の三位一体の教理がこの箇所からたくさんのことを引き出していることは間違いありません。
「初めに言があった」という言葉に続けて、「言は神と共にあった」と述べることで、ロゴスと父なる神との関係を語ります。「共にあった」という表現は、ロゴスと父なる神が別のものであるということです。もし、同一であるとすれば、「共にあった」という言い方は不適切でしょう。
けれども、ヨハネ福音書は「共にあった」というだけでは、不十分と考え、「言は神であった」と付け加えます。もし、多神教の信仰をもつものがこの記事を読めば、父なる神と、ロゴスなる神の二つの存在が共存していた、と読み違えてしまうことでしょう。しかし、ヨハネは唯一の真の神だけを信じた人です。唯一の神だけが存在することを信じていたヨハネが、「言と神が共にあって、なおかつ、言は神であった」と語るこの矛盾した表現は、もはや人間の理性で説明することはできません。そうであればこそ、のちに三位一体の教理がそのことをあるがままに説明しようとしたのです。
このようにヨハネ福音書は、これから読者に物語ろうとしている中心のお方を、神と共にあり、なおかつ神である不思議なお方、神の言葉であるロゴスとして紹介しているのです。このような救い主イエス・キリストについて、これからご一緒に学んでいきたいと思います。