2013年10月17日(木)ローマへの旅立ち(使徒27:1-12)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょう取り上げようとしている個所は、航海日誌か旅行記とも思えるような個所です。ここから何かのメッセージを引き出すとなると、きょうの箇所ほど扱いにくい箇所はないのではないかと思います。むしろ、純粋な旅行記と割り切って味わった方がよさそうにさえ感じられます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 27章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。わたしたちは、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人たちのところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に着いた。
かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった。
皇帝への上訴を申し立てたパウロは、いよいよローマへと旅立つことになります。この場合、陸路を使うという選択肢もあったかもしれませんが、日数がかかることと、また囚人が逃亡するリスクを考えると、あまり現実的なルートではありませんでした。パウロは他の囚人と共に、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという人に引き渡され、船でローマに向かうことになります。他の囚人たちが、みなパウロのように皇帝への上訴を願っている者たちばかり、というわけではありません。どんな囚人か具体的には記されていませんが、後に船が難破したときに、これらの囚人たちは逃亡を防ぐために兵士によって殺されかけました(使徒27:42)。逃亡されるよりは殺されても仕方がない人たちであったようですから、パウロが皇帝に上訴するのとは違った事情をもった囚人たちであったと思われます。
ところで、当時、パウロたちが乗せられた船は、イタリアへの直行便というわけではありませんでした。沿岸を港伝いに航行する船でした。しかも、途中でイタリア行きの船に乗り換えなければローマにたどりつくことはできなかったのですが、正確な時刻表があって、乗り継ぎができる船が予め用意されていたというわけではありません。この辺りの事情は、今の旅行とは随分違います。
昔、わたしは小笠原の母島に行ったことがありますが、たまたま父島に停泊していた母島行きの貨物船を見つけて翌日同乗させてもらっていきました。貨物船ですから、貨物の積み下ろし次第で、出航が早まったり、遅くなったりするために、乗り遅れはしないかと気が気ではなかったのを覚えています。きっとパウロたちも寄港する港で、同じような思いを経験したのではないかと想像します。
さて、パウロたちが最初に乗った船は、アドラミティオン港の船でした。アドラミティオンというのは小アジア西の端に近い港で、その港に所属する船という意味でしょう。パウロたちが乗り込んだのはカイサリアからだと思われますが、27章の記事は、再び「わたしたち」という言葉が使われています。これは第三回宣教旅行を終えてエルサレムに向かう記事にも出てきた表現で(使徒20:5〜20:18参照)、使徒言行録の著者もパウロに同行したことを思わせる書き方です。この「わたしたち」にはテサロニケ出身のアリスタルコも含まれていました。第三回の宣教旅行の終わりから、パウロに同行してエルサレムに上った一員です(使徒20:4)。その名前はコロサイの信徒への手紙(4:10)やフィレモンへの手紙(24)にも登場しています。これらの書簡がローマで書かれたとする人たちは、このアリスタルコがパウロに同行してローマにまで行ったものと考えています。
カイサリアを出て最初の寄港地は、カイサリアから北に百キロちょっとの所にあるフェニキアの港町シドンでした。シドンでは百人隊長ユリウスのはからいによって、友人たちを訪ねることが許されました。この場合の「友人たち」(フィロイ)という言葉は、ヨハネの手紙にあるようにキリスト者を指す言葉であると考えられています(3ヨハネ15)。フェニキアにはステファノの迫害によって散らされたクリスチャンたちが伝道をしていますから、キリストを信じる群れがいたと思われます(使徒21:4参照)。それにしても、このような自由が与えられたことは、百人隊長の寛大さもあるかもしれませんが、キリスト者であるパウロに対する評価がよほど良くなければあり得なかったことでしょう。
さて、シドンからミラまでは、既に三回目の宣教旅行を終えてエルサレムに向かうときに通った航路ですが、しかし、今回はキプロス島の南ではなく、北側を迂回して行きました。地図で見ていただくとお分かりになると思いますが、距離的には、カイサリアからまっすぐ地中海を北西に進み、キプロス島を右に見ながらミラへ向かった方が断然近いのですが、風の関係で、いったん北上してから、西に進路を変え、キプロス島を左手に、小アジアの沿岸を右手に見ながら航行しなければなりませんでした。
このミラで船を乗換え、いよいよイタリアへ向かいます。この新しい船の積み荷は後で分かる通り穀物でしたから、アレクサンドリアからミラを経由してイタリアに穀物を運ぶ船だったのでしょう。しかし、ここから先、風に行く手を阻まれ、どうにかクレタ島の「良い港」と呼ばれるところまで辿りつきました。
使徒言行録はこのとき既に断食日も過ぎていたと報告しています。これは贖罪日のことですが(民数記29:7)、11月を過ぎると地中海を船で行き来することは危険と考えられていた時期です。そこでパウロは、これ以上の航海を続けることは危険であると忠告しますが、百人隊長は船長や船主の意見を聞き入れて、さらに先のもっと安全な港まで進んで冬を過ごすことにしました。このことが、後に難破を招くきっかけとなるのですが、もちろん先のことは誰も知るすべもありません。
さて、ここまで使徒言行録はかなり詳しくローマへの船旅の様子を描いてきました。この詳しすぎるくらいの記録によって、わたしたちはパウロのたどった航路を正確に知ることができます。しかし、どんな航路をたどったかということよりも、シドンでクリスチャン仲間を訪問することを許されたパウロのエピソードや、百人隊長に船の針路について意見を述べるパウロの話の中に、生のパウロの姿を垣間見る思いがします。それは百人隊長がパウロに対してどれほどの信頼を寄せていたかという証しでもあるように思います。