2013年10月10日(木)アグリッパ王の前で弁明するパウロ(使徒26:1-32)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
使徒言行録は当然のことですが、キリスト教の立場で、キリスト教の視点から出来事を描いています。例えば、何回かにわたって取り上げているパウロの逮捕とそれに続くパウロの弁明の話も、事件の真相を客観的に解明するということに主眼が置かれているわけではありません。むしろ、パウロが復活のキリストによって召し出されたときに受けた福音宣教の使命と苦難の予告が、どのように実現していくのかという視点から描かれています。
パウロを捕らえようとしたユダヤ人たちも、またその騒動によって、この事件を扱わざるを得なくなったローマの官憲や為政者たちも、神の摂理の御手の中に置かれているのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は使徒言行録26章全体を取り上げますが、19節〜32節までを抜粋してお読みしたいと思います。
「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」
パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」アグリッパはパウロに言った。「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」パウロは言った。「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がった。彼らは退場してから、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」と話し合った。アグリッパ王はフェストゥスに、「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言った。
三度目の宣教旅行を終えたパウロは、異邦人教会で集めた救援金を携えてエルサレムに上りましたが、そこで反感を抱くユダヤ人たちの騒動に巻き込まれ、監禁される身となってしまいました。その一連の出来事を今、使徒言行録から学んでいます。
振り返ってみると、この身柄の拘束をきっかけに、パウロは自分が主から召し出されたことや、自分の使命について、何度も語る機会が与えれらました。ユダヤの民衆を前に弁明の機会が与えられたのをはじめとして、ユダヤ最高法院での弁明、総督フェリクスの前での弁明、そして、フェリクスの後任者フェストゥスの前での弁明と、既に四回も語る機会が与えられています。
さらに、着任したフェストゥスを表敬訪問したアグリッパ二世の前でも、弁明の機会が与えられることになりました。きょう取り上げた使徒言行録26章は、その様子を記した箇所です。
きょうの箇所も含めて、五つの箇所で語られている内容を比べてみると、すべてが同じというわけではありません。パウロは同じ弁明の言葉を繰り返しているのではなく、相手によって、機会によって言葉も内容も選んでいるということです。ただ、きょうの個所は、かつてはキリスト教の迫害者であった自分が、どのようにしてキリストの福音を宣教するようになったのかという、自分の回心と召命について語っているという点では、ユダヤの民衆の前で語った22章の内容と似ています。
そして、アグリッパ王の前での演説は、弁明の言葉というよりは、キリスト教が何を信じているのか、という福音宣教そのもののような内容です。パウロがこの場を借りて意図的に福音を宣教する機会としたのかどうかは分かりませんが、少なくともアグリッパには、パウロが自分を伝道しようとしていると感じられたほどでした。
さて、アグリッパ王の面前でのパウロの弁明は、既に何度も登場したパウロの弁明の言葉と重複する部分もいくつかありますが、今回の弁明で際立っているのは、パウロが自分の宣べ伝えている教えをどう理解しているのか、そのことを明確に語っている点です。
それは、預言者たちやモーセが必ず起こると語ってきた神のご計画と、パウロの語ってきたことが完全に一致しているという理解です。
つまり、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、ユダヤ人にも異邦人にも光を語り告げることになる、ということが、既にモーセや預言者たちによって告げられてきたことだという主張です。使徒言行録に記されているパウロの弁明の言葉は、一字一句漏らさない完全な記録ではありませんから、ここでパウロが聖書を引用してそのことを解き明かしたかどうかは分かりません。しかし、そう主張するからには、いつでもその用意はあったことでしょう。おそらくは実際に聖書から引用して、そのことを証明してみせたかも知れません。新約聖書に引用されるおびただしい数の旧約聖書の言葉は、すでにキリスト教会がそうした証拠となる聖書個所をまとめて持っていたことを推測させます。
ここでパウロが述べている、メシアの苦しみや復活、そして異邦人をも福音にあずかる対象としている点は、まさにユダヤ人たちの理解しがたい点でした。そして、その点こそがパウロを訴えるユダヤ人たちとパウロとの間にある真の論争点であったと思われます。
残念なことに、パウロの弁明は同席していた総督フェストゥスによって阻まれてしまいます。フェストゥスにとっては、聖書に対する博学さがパウロを狂わせてしまったとしか思えなかったからです。
パウロはすかさずアグリッパ王に自分の主張の正しさを同意してもらおうとしますが、アグリッパ王自身はあいまいな返事で、この場を逃げてしまいます。というのも、頭がおかしいとフェストゥスから言われた男に同意してしまえば、自分自身も頭がおかしいと思われてしまうからです。それに安易にパウロに同調すれば、ユダヤ人の反感を買ってしまうという政治的な判断も働いたかもしれません。
パウロの宣べ伝えている福音の内容は、結局アグリッパ王にもフェストゥス総督にも受け入れられるものとはなりませんでした。確かにこの二人にとっては、宗教的な真理は二の次のことでした。しかし、パウロが無罪であるという確信だけは、この二人から勝ち取ることができたという点では、パウロの弁明は決して無駄ではありませんでした。無駄であるどころか、今まで繰り返してきた弁明と比べて、パウロは自分の主張を最も大胆に語り尽くしたと言えるでしょう。その言葉の中にある通り、このことは、決してどこかの片隅で起こったのではありません(26:26)。