2013年9月12日(木)フェリスクに対するパウロの弁明(使徒24:10-23)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストは、弟子たちにおっしゃったことがありました。
 「これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」(ルカ21:12-13)。

 今日取り上げる個所は、まさに総督の前で証しの機会を与えられたパウロの話です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 24章10節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。「私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じ上げておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ12日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。さて、私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかで戻って来ました。私が清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動もありませんでした。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに出頭して告発すべきだったのです。さもなければ、ここにいる人たち自身が、最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」フェリクスは、この道についてかなり詳しく知っていたので、「千人隊長リシアが下って来るのを待って、あなたたちの申し立てに対して判決を下すことにする」と言って裁判を延期した。そして、パウロを監禁するように、百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにさせた。

 先週は、総督フェリクスの前でパウロを告発するテルティロの言葉を取りあげました。今回は、その告発に対するパウロ自身によるの弁明の言葉です。

 総督フェリクスへの短い挨拶の言葉の後、パウロはさっそく本題に入ります。このパウロの弁明は三つの要点から成り立っています。つまり、第一に自分が騒動の主謀者であるという点について。第二点は分派と称される「この道」について。そして第三点は、事柄の真相についてです。
 まず第一点に関して、つまり、自分があたかも群衆を扇動して騒動を引き起こす主謀者のように訴えられている点に関してパウロは最初に弁明します。ユダヤ人側の告発者がその点を第一に挙げていますから、反論としても当然この点が最初に取り上げられます。自分が騒動の主謀者であるということに関してパウロは、次の三つの点を指摘します。

 その一つは、騒動を起こす主謀者にしては、エルサレムに来てまだ12日間しかたっていないということです。この12日間が厳密にどの期間のことを指しているのかは明白ではありませんが、仮にパウロが清めの期間のためにエルサレムで過ごした7日間と(使徒21:26-27)、カイサリアに護送されてから訴える者たちがやって来るまでの5日間を含めると、それだけで12日間は経ってしまいます。つまり、パウロが言いたいことは、計画的な騒動を実現するためには、自分にはあまりにも期間がなかったという主張です。したがってユダヤ人たちが主張するように、誰かを扇動して組織的に騒動を起こすことは不可能だということです。

 自分が騒動の主謀者であるという訴えに対してパウロが挙げる二番目の反論は、実際パウロが誰かと論争したり、誰かを扇動したりしているのを目撃した人がいない、という点です。もちろん、これだけでは告発者との間で水掛け論になるだけです。

 そこで、第三のこととして、パウロは、彼らが具体的な証拠をあげていない点を指摘しています。もし具体的な証拠もなく人を告発できるのであれば、先に告発した方が勝ちです。しかし、裁判というのはそう言うものではありません。決定的な証拠がなければ、訴えは成り立ちません。

 パウロは次に、彼らが「分派」と呼ぶ「この道」について弁明します。パウロを告発したユダヤ人たちは、パウロが「ナザレ人の分派」の主謀者であると言いました。この言葉の背後にあるのは、決して事実を客観的に穏やかに表現しているのではありません。パウロの運動は一部の人々による分派活動であり、それは正当的なユダヤ教ではないという含みがあります。パウロはその分派活動の一構成員ではなく、主謀者というレッテルです。
 パウロはまず「この道」がユダヤ教の信条から大きく外れるものではないことを弁明します。なぜなら、律法と預言書に記されたことをことごとく信じて、先祖の神を礼拝しているからです。パウロの理解によれば、キリスト教の主張は旧約聖書から解き明かすことができるということです。

 ただ、パウロを訴え出た者たちの信じるところと全く同じかと言えば、そうでないことも事実です。復活についての希望について言えば、たしかにサドカイ派の人たちとは違う立場です。しかし、復活についての望みは、ファリサイ派とサドカイ派の間でも違いがあるのですから、キリスト教だけが異端的な分派なのではありません。
 異端的分派どころか、復活とそれに続く神の最後の審判を信じているからこそ、良心に責められることがないようにと、神の御旨に従って良心的に生きているのです。そういう信条で生きているパウロを、あたかも騒ぎの主謀者、扇動者として訴えるのはお門違いです。

 最後にパウロは、事柄の真相を述べて終わります。確かにパウロが最初に捕縛されたときは、手もつけられない騒動のさなかでした。しかし、パウロが清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているときには、群衆も騒動もなかったのです。騒動は明らかにアジア州から来た数人のユダヤ人によって引き起こされたものです。パウロを訴えるならば、彼らこそ告発すべき人たちなのです。

 このパウロの弁明が総督フェリクスの心に届いたかどうかは分かりません。後に記されているとおり、フェリクスにはパウロからお金をもらおうとする下心もあったようです(24:26)。ただ、そうであったとしても、パウロは神によってキリスト教について堂々と証しする機会が与えられたのです。