2013年8月15日(木)最高法院でのパウロの弁明(使徒22:30-23:11)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 宗教裁判という言葉には、何か陰湿な響きを感じるかもしれません。地動説を説くガリレオの裁判や中世の魔女狩り裁判がイメージされるからかもしれません。あるいはイエス・キリストを裁いたユダヤ最高法院のことを思うと、最初から結論がでている偏見に満ちた裁判というイメージがあるからかもしれません。
 しかし、使徒言行録の記事に登場する最高法院は、必ずしも結論が先にあるという、見せかけだけの裁判を行う場所ではないようです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 22章30節〜23章11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。
 その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

 前回は、ユダヤ民衆の前で弁明するパウロに対して、収拾がつかないほどの混乱が民衆のうちに起こったことを学びました。今回はユダヤ最高法院の前で弁明の機会が与えられたパウロの記事から学びたいと思います。

 パウロがエルサレムで最高法院の前に立たされる、という出来事は、イエス・キリストが最高法院で取り調べを受けた時のことを思い出させます。イエス・キリストにとってそれは、最後のエルサレム訪問の機会に起こったことでしたが、パウロにとってもそれは第三回宣教旅行の最終目的地で起こった事件でした。そして、これからローマに向かおうと計画していたパウロにとっては、今回のエルサレム訪問は自分にとって最後の訪問になるかもしれない、という思いがあったかもしれません。

 おそらく使徒言行録の著者も、その類似関係には気が付いていたことでしょう。キリストの復活に与る者は、またキリストの苦しみにも与る者とされているのです。

 パウロが最高法院で取り調べを受けるようになったのは、パウロ自身が必ずしもそう望んでいたわけではありません。またユダヤの最高法院がエルサレムで起こった騒動の中心人物を取り調べたいと、パウロの身柄を拘束していた千人隊長に申し出たからでもありません。千人隊長の真面目なほどの職務への忠実さが、そうさせたのでした。

 これほどまでにユダヤ民衆から嫌われているパウロという男が、いったいどうしてそんな訴えを民衆たちから受けなければならないのか、その真相を知りたいという思いからでした。期せずしてパウロはまたしても弁明の機会をあたえられることになります。

 パウロは最高法院にたたされると、開口一番、こう述べました。

 「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」

 これはパウロにとって偽りのない正直な思いです。ここでパウロは最高法院の議員たちを「兄弟たち」と呼びかけています。たとえ異邦人へのキリスト教伝道を使命として与えられたパウロであったとしても、パウロにとってユダヤ教を信じる同胞たちは、依然として愛する兄弟には変わりないのです。それは、彼がローマの信徒へ宛てた手紙の中にも表現しているとおり、パウロが同胞に対して抱いている思いには、あつい変わることのない愛が満ち溢れているのです(ローマ9:1-3)そして、パウロには、自分は今までと同じように神に良心をもって従ってきたという自負心があります。

 大祭司アナニアがパウロに対して激怒したのは、このパウロの自負心に対してであったでしょう。おそらく最高法院の大多数の人々がパウロを正当的なユダヤ教から外れた異端者のように考えていたに違いありません。そうであればこそ、パウロの口から、自分はあくまでも良心に従って神の前で生きてきた、などという弁明を聞くのは、耐え難かったのでしょう。

 ところで、パウロはこの最高法院の構成メンバーが祭司などの特権階級が属するサドカイ派と、それとは一線を画するファリサイ派の議員からなっていることを知っていました。両者の違いは階級の違いというだけではなく、何を信じているのか、という点でも違いがありました。たとえば、天使や霊魂の存在や、肉体の復活について、ファリサイ派はそれを認め、サドカイ派はそれに反対すると言った具合でした。
 パウロは巧みにこの両者の信条の違いを利用して、自分への訴えが、ユダヤ教全体のコンセンサスを得ないものであることを明らかにします。

 「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」

 案の定、ファリサイ派はパウロを擁護し、パウロを取り調べるはずの議会は、サドカイ派とファリサイ派との争いの場へと変わってしまいます。

 結局、最高法院によって、ことの真相が明らかになると期待していた千人隊長にとっては、ほとんど役に立たない取り調べであったかもしれません。しかし、パウロにとってはそうではありませんでした。千人隊長による身柄の保護やファリサイ派による自分への擁護よりももっと素晴らしいことを主から聞かされたからです。

 「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

 パウロは神の不思議な導きによって、ローマにまで行って主を証しする機会を与えらる事が、約束されたのです。