2013年7月25日(木)パウロの回心の証し(使徒22:6-16)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 自分がどういう経緯でキリスト者となったのか、そういう話を、キリスト教会の用語で「救いの証し」と呼んでいます。キリスト教会の洗礼を受け、自分の信仰を告白している人であれば、誰でも「救いの証し」をもっています。
 もっとも、劇的な回心を誰もが経験しているかというと、それはまた別の話です。きょうこれから学ぼうとしているパウロの回心のように、劇的な仕方でキリストと出会い、回心に至るという人もいれば、生まれながら、キリスト教を信じる家庭に育ち、ほんとうに小さなことがきっかけで自分の信仰を告白するようになったという人もいます。どちらも、救いの恵みを受けたという立派な証しです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 22章6節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』と答えがありました。一緒にいた人々は、その光は見たのですが、わたしに話しかけた方の声は聞きませんでした。『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。わたしは、その光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。
 ダマスコにはアナニアという人がいました。律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。この人がわたしのところに来て、そばに立ってこう言いました。『兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。』するとそのとき、わたしはその人が見えるようになったのです。アナニアは言いました。『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」

 パウロの回心についての記事は、既に使徒言行録の9章に記されています。きょうの個所はそう言う意味では9章に記されていたことの繰り返しです。ただ違っているのは、9章では使徒言行録の著者が、パウロの回心の事件を客観的に語っているのに対して、今日の個所では、パウロ自身が自分の回心について自分の体験として語っているという点です。
 もっとも、どちらを書き記しているのも使徒言行録の著者自身ですから、語っているパウロと書き記している著者とを厳密に区別することは難しいかもしれません。この記録がパウロの演説の口述筆記であるというのなら話は別ですが、おそらくは後で記憶を頼りに書きしるしたものでしょう。仮に著者とパウロを区別できたとしても、9章に記されたパウロの回心の記事も、結局はパウロ自身から聞いた内容でしょうから、9章もきょうの個所も、記事の内容の源泉はパウロ自身の証言からくるものであり、同時にどちらも使徒言行録の著者自身のフィルターを介して記されたものですから、どちらがより客観的な事実を伝えているか、という問いはあまり意味をなさないでしょう。

 さらにこのあとパウロの回心についての記事は、26章でも再び登場します。こちらもパウロ自身が自分の体験を語るというものです。こうして使徒言行録全体で三度にわたってパウロの回心の次第は伝えられるのですが、読み比べてみると細かい点では違いもあります。しかし、9章の学びの時にも述べたとおり、概略はほとんど同じと言ってもよいものです。
 使徒言行録がパウロ回心の出来事として語っていることがらは、ダマスコに行く途上で、天からの強い光に照らされて、地面に倒れたこと。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というイエスの声を聞いたこと。そして、サウロがなすべき使命があることを告げられたことです。

 けれども中核をなす部分が同じとはいっても、きょうの個所からは特別に新しく学ぶべき点がないということではありません。やはり9章で記されたのとは違った視点があることに注目する必要があります。

 既に学んだ9章のパウロ回心の記事は、出来事をできるだけ客観的に記そうという著者の意図に沿ったものでした。しかし、きょうの個所ではパウロ自身が自分の回心の出来事を語るという場面です。しかも、パウロがそれを語る意図は、ユダヤ人に対する弁明を行うためでした(使徒22:1)。そう言う意味では、単なる救いの証しというのとは少し違います。この弁明全体はパウロが神によって回心の機会を与えられ、神によって新しい使命を与えられたということを述べるものであることは明らかです。

 パウロが弁明で語る自分の回心の場面では、まずパウロを照らした光の印象深さが強調されています。9章では「突然、天からの光が彼の周りを照らした」(9:3)とだけ記されていたものが、ここでは、それが真昼の出来事であったことが、わざわざ記されています。
 パウロの回心の出来事が、夜明け前であっても、夕方であっても、事柄の本質に影響があるわけではありません。わざわざ真昼の出来事であったことを述べる必要もないように思われますが、パウロはそれが真昼の出来事であったと述べます。それは太陽が照りつける真昼ごろでありながら、それを上回る強い光が自分の周りを照らしたということでしょう。
 そしてさらに、パウロは、自分と一緒にいた者たちが、光は目撃したのに、自分に話しかけた方の声は聞かなかったと述べています。この発言は少なくとも9章で描かれている内容と矛盾しているように思われます。というのは、9章7節には「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた」と記されているからです。9章では同行していた者たちが少なくとも声を聞いていたことになっています。ところがパウロ自身の証言では、それとは逆で、声よりも光の方に強調点が置かれています。つまり、パウロにとっても同行者にとっても、真昼の光を上回るこの強い光が特別な光として自分たちを照らしたことが繰り返し述べられているのです。それは、この出来事が神に由来する特別な出来事であることを強調したかったからでしょう。

 続いてアナニアに関しても、9章の記述と22章とでは描き方が違っています。その一番の違いは、アナニアがどんな人物であるのか、という記述です。「律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。」とわざわざ紹介されています。パウロは律法に反する生活を説く者としてユダヤ人たちから命を狙われているのですから、ユダヤ人を前にして語るパウロの弁明では、ダマスコでパウロに最初に接したアナニアがどんな人物であったのか、ということは重要です。
 そして、神からの特別な使命をパウロに伝えたのも、このアナニアであったとパウロは証言します。

 こうしてパウロはこの弁明を通して、自分の働きが神から出たものであること、そして、それは決して律法を無視する人々から生じたものではないことを雄弁に語っているのです。