2013年7月18日(木)弁明するパウロ(使徒21:37-22:5)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会と国家という言葉を聞くと、この日本では、しばしば対立的なイメージを思い浮かべるのではないかと思います。実際、明治政府ができてから最初の五年間は、江戸幕府のキリシタン禁令はそのまま受け継がれ、日本人クリスチャンへの迫害は公然と行われました。
明治憲法のもとでは条件付きではあるものの信教の自由が認められはしましたが、昭和の軍国主義時代に入ってからは、国家神道をイデオロギーとする軍国主義の政府と相いれないことを理由に、再びキリスト教会への弾圧が強まって行きました。
こうした経緯のために、国家は教会と対立する危険な存在というイメージが生れ、国家に対する警戒感が今なお日本のキリスト教会にはあるように思います。
しかし、パウロにとって、ローマ帝国は必ずしもキリスト教会と対立する存在ではありませんでした。きょう、これから取り上げる個所でも、パウロに弁明の機会を与えたのは、治安維持のために立てられたローマ帝国の組織のおかげでした。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 21章37節〜22章5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
パウロは兵営の中に連れて行かれそうになったとき、「ひと言お話ししてもよいでしょうか」と千人隊長に言った。すると、千人隊長が尋ねた。「ギリシア語が話せるのか。それならお前は、最近反乱を起こし、4千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか。」パウロは言った。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たちに話をさせてください。」千人隊長が許可したので、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制した。すっかり静かになったとき、パウロはヘブライ語で話し始めた。
「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」
前回の学びでは、エルサレムの神殿を訪れたパウロが、暴徒化したユダヤの民衆に取り囲まれて、危うく殺されそうになる場面を学びました。この騒乱を鎮圧し、パウロを暴徒たちから救ったのはローマの軍隊でした。
もっともこの段階では、パウロを救い出したというよりは、騒ぎの中心人物を捕獲したという方が正確です。身柄を拘束して、取り調べるためです。しかし、少なくともそのおかげで、パウロは自分を襲う身の危険から逃れることができました。
さて、兵営での取り調べのために連行されるパウロは、途中、千人隊長にギリシア語で話しかけます。ちなみにイエス・キリストの十字架に掲げられた罪状書きが、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で記されていたことからも分かる通り(ヨハネ19:20)、当時のエルサレム周辺で話されていた主要な言語は、この三つでした。ヘブライ語あるいはアラム語はユダヤ人の言葉でしたから、彼らがヘブライ語を話すのは、ローマから派遣された千人隊長にとっては日常の風景でした。しかし、ユダヤ人であるパウロの口から教養人の言葉であるギリシア語が飛び出したのを聞いて、千人隊長が驚いたのも無理はありません。
それと同時に、騒動の中心にいたパウロが、治安を揺るがすような危険な人物ではないことを千人隊長は悟ります。
というのは、フェリクスがユダヤの総督であったこの時代、エルサレムの都ではシカリ派の徒党が暗殺事件を繰り返し、またエジプト人の偽預言者が徒党を組んでエルサレムの治安を脅かすという事件が起こっていたからです。ヨセフスの『ユダヤ戦記』(2:8:5)によれば、その徒党の大多数はローマ軍によって鎮圧されましたが、首謀者であるエジプト人偽預言者は仲間と共に逃亡したとあります。
千人隊長が「それならお前は、最近反乱を起こし、4千人の暗殺者を引き連れて荒れ野へ行った、あのエジプト人ではないのか」と言ったのはこの事件のことがあったからです。
パウロは千人隊長に自分がユダヤ人であり、キリキア州の州都タルソスの市民であることを告げて、民衆への弁明の機会を求めます。タルソスはアレクサンドリアとアテネに並ぶ文化都市で、ストラボンの『地理書』によれば、哲学者、文法家、詩人の活動はアレクサンドリアとアテネに勝るとさえ言われています。パウロが自分の町タルソスを「れっきとした町」と呼んでいるのはそういう誇りをこめてです。
弁明の機会を与えられたパウロは自分の民にヘブライ語、おそらくはアラム語だと思われますが、自分の民族の言葉で語ります。このパウロの弁明は、主に四つの内容で構成されますが、きょう取り上げたのは、その冒頭の部分です。そこでは、パウロの生い立ちから、キリスト教の迫害者であった自分が語られます。
パウロはキリキア州の州都タルソスで生れた後、何歳になってエルサレムに来たのかは分かりませんが、エルサレムでガマリエルのもとで律法の教育を受けています。このガマリエルという人物は、使徒言行録5章34節以下のところでは、「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属する」人物と紹介されています。彼は使徒たちが最高法院で尋問を受けた時、慎重な意見を述べたことで知られています。
しかし、パウロは師であるガマリエルとは違って、キリスト教に対して厳しい迫害の手を伸ばしました。男女を問わず縛り上げて投獄するほどの徹底ぶりで、ステファノの殉教の場面にも登場し、ステファノの殺害に賛成していた人物でした(使徒8:1)。パウロがこの道の者を「殺しさえした」と告白しているのは、少なくともステファノの死に関してはその通りでした。
パウロがキリスト教会の迫害者であったのは、もう20年以上も前の事ですから、知らない世代の人たちもいたことでしょう。しかし、証拠を求められれば、目撃証人はまだ生きています。何より、大祭司も最高法院もパウロの過去を知らないはずがありません。キリスト教迫害のための書状をこの人たちからもらったからです。
パウロは過去の自分を、今、自分を捕らえて殺そうとしているユダヤ人たちと重ね合わせることで、自分がこれから話そうとしている話題に彼らの関心を引き付けていきます。
パウロはもはやかつてのような律法に熱心なユダヤ教徒ではありません。しかし、自分が通ってきた道ですから、誰よりも雄弁に、説得力をもってキリストへの回心を語ることができるのです。
それは状況が異なるわたしたちにも当てはまります。回心とは今までとは180度異なる道をキリストに向かって歩み出すことです。しかし、伝道は自分がいたその場所にむかってまさに語りかけることから始まるのです。