2013年6月13日(木)神の恵みの福音を伝える任務(使徒20:13-24)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会には長老教会と呼ばれる教派があります。「長老」という言葉のイメージから、年寄りの集まりという印象を受けるかもしれません。
 聖書には「長老」ということばの他に「監督」という言葉も出てきますが、パウロはエフェソの長老たちに対して、「(神は)あなたがたをこの群れの監督者に任命なさった」と述べています(使徒20:28)。そこで「長老」も「監督」も同じ教会の職務を指しているという理解が生れるようになりました。
 さて、今週もエフェソの長老たちに語ったパウロの別れの言葉からご一緒に学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 20章25節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
 このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。

 パウロは三度目の伝道旅行の最後に、異邦人教会で集めた義捐金を携えてエルサレムに赴く予定でした。この時パウロには、ローマにもイスパニアにも赴きたいというビジョンがありました(使徒19:21、ローマ15:22-26)。しかしまた同時に、この伝道旅行の最後になって、ユダヤ人たちがパウロに対して陰謀を巡らせていることも発覚しました(使徒20:3)。きょう取り上げるのは、そういう緊迫した状況の中でエフェソの教会の長老たちにパウロが語った言葉です。今回はその後半を取り上げますが、そこには長老たる者の務めと心構えが述べられています。

 パウロはまず長老たちに対して「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と勧めます(使徒20:28)。というのは教会には外からも内からも、群れを襲う危険がつきまとっているからです。特に教会の内側からさえも、曲がったことを唱えて弟子たちを従わせようとする者たちが現れるのですから、群れを守り養う長老たちの務めは重要です。

 パウロはここで長老たちについて、神が監督者として任命した、と述べています。ここで遣われている「監督者」という言葉をあらわすギリシア語「エピスコポス」という言葉は、「上から見渡す」というニュアンスの言葉です。もちろん、それは上からものを見下すということではありません。高い位置に立つのは見下すためではなく、全体を上から見渡すためです。
 監督者には全体を見渡すことが求められています。群れ全体に気を配るようにと、パウロが勧めているのはそのことです。
 群れ全体を見渡し、群れ全体に気を配る監督者が立てられているのは、「神の教会の世話をさせるため」だとパウロは述べます。神の教会というのは、神が御子の貴い血潮によってご自分のものとされた信徒一人一人から成り立つ群れです。その群れを世話するのが長老であり監督である者の務めです。
 「世話をする」というギリシア語のもともとの意味は「群れを牧する」という言葉で、文字どおりには羊飼いが羊を養うという意味の言葉です。羊飼いは、時には迷い出る羊を群れに連れ戻すことが求められ、時には群れを襲う猛獣から群れを守ることが求められ、時には群れを導いて食べ物・飲み物にありつかせることが求められます。羊飼いが羊の世話をするとはそういうことです。パウロはそれと同じようなイメージで、教会の信徒一人一人を世話するようにと長老たちが監督者として立てられていると述べています。

 そして、何よりもその様な務めを果たすために監督者に求められていることは、パウロが教えてきたことを思い起こし、目を覚ましていることだ、とパウロは述べます(使徒20:31)。もちろん、それは文字通りに眠らないことではありません。使徒たちの教えを忠実に学び、注意深くそれを守ることです。なぜなら使徒たちはそれらのことをイエス・キリストから学び、教えられてきたからです。イエス・キリストから教え継がれたことを自覚的にかたく守ることで、教会は外からの敵にも、内からの敵にも打ち勝つことができるのです。

 けれども、そのような責任の重い務めを誰が果たすことができるでしょうか。人間の力では誰一人果たすことはできないでしょう。パウロもそのことはよく承知していました。パウロは教会の群れを監督者という人間の手に委ねているのではありません。そうではなく、監督者自身を神とその恵みの言葉とに委ね、その監督者を通して群れが養われることを願っているのです。

 神の恵みの言葉だけが人を造り上げ、恵みを受け継がせることができるからです。パウロは長老たち自身が御言葉によって養われ、健全な信仰を保つことを確信し、期待しています。エフェソの教会の長老たちが、教会の監督者として選ばれ、立てられたのは、彼ら自身が人格者であり、評判の良い人たちであったからかもしれません。しかし、それだけでは足りないのです。神の恵みの言葉に自分を委ね、信仰を養われる者でなければ、群れを導くことはできません。

 最後にパウロは、監督者たちに「受けるよりは与える方が幸いである」とおっしゃった主イエスの言葉を思い起こさせています。人は与えるよりも受け取ることに誘惑されやすいものです。群れを世話する者は、群れによって自分を養うのではなく、羊のためにすべてを与えて下さったイエス・キリストを見上げる姿勢が求められているのです。