2013年6月6日(木)神の恵みの福音を伝える任務(使徒20:13-24)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
もう、ずいぶん昔の話になりますが、わたしが茨城県のつくば市で牧師をしていたころのことです。同じ教派の別の教会の会員が、筑波山の向こうの町へ引っ越したので、一度訪ねて行ってほしいとのことでした。つくば市は今でこそ都心から電車で一時間もかからないで行ける場所ですが、その当時はつくば市に転勤になった公務員には僻地手当が出るくらいの田舎でした。そこからさらに山を超えた向こうの町となると、どれほどの田舎であるかは想像がつくと思います。案の定、小さな集落が点在する田舎の町でした。
しかし、その小さな町にもキリストの福音を何十年にもわたって宣べ伝えている教会がありました。この小さな田舎町に教会が生れるまでに、どれほどの困難と苦労があっただろうかと、その時思ったものでした。
さて、福音宣教の労苦は今に始まったものではありません。パウロの働きを見ても分かる通り、福音宣教のはじめから困難があったと言っても言い過ぎではありません。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 20章13節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。
パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、”霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
パウロたちによる三回目の宣教旅行もいよいよ終わりに近づいてきました。異邦人教会で集めた義捐金を携えてエルサレムへ向かえば、この旅行も目的を終えることになります。
先ほどお読みした個所は、トロアスで他の弟子たちと合流したパウロ一行が、ミレトスに向かう旅路を記した個所でした。そして、ミレトスで呼び寄せたエフェソの教会の長老たちを前に、パウロは別れの説教ともいうべき話を語ります。今回はその演説の前半だけを取り上げて、後半は次回に回すことにします。
まずは、トロアスからミレトスに至るまでの旅路を簡単に見てみましょう。トロアスで合流した弟子たちは、船でアソスに向かいますが、パウロは遅れてトロアスを発ち、陸路をアソスに向って進みます。そこで再び他の弟子たちと合流して船に乗り込む手はずになっていたからです。その後、船がどの航路をたどったかという細かな説明が続きますが、肝心なことは、なぜパウロ一行がエフェソに立ち寄らずに、エフェソより南のミレトスに立ち寄ったのか、ということです。エフェソではアルテミスの神殿をめぐって騒動に巻き込まれたパウロでしたから、この街を再び訪問することは、危険が大きすぎます。それともう一つ、パウロは五旬祭までにはエルサレムに到着したいと思っていましたから、かつて長期にわたって滞在したエフェソの町を訪問すれば、たくさんの時間がとられてしまうという懸念もあったことでしょう。
パウロはエフェソに立ち寄らずにミレトスにまで行って、そこでエフェソの長老たちを呼び寄せます。長老たちを呼び寄せた理由は、パウロ自身の話の内容からも推測できるように、これがお別れであったからです。パウロ自身、エフェソの長老たちに会うのは、これが最後になるという予感がありました(使徒20:3、22-23、25)。もちろん、それは自分の身にどんな危険が迫ってきているかという予感もありましたが、しかし、同時にパウロにはエルサレムに行った後、ローマも見なくてはならないというビジョンがあったからです(使徒19:21、ローマ15:22-26)。危険が現実のものとなったとしても、また危険から守られて、ローマ行きが実現したとしても、どちらにしてもこれが最後になるという思いはありました。
さて、パウロは集まってきた長老たちにお別れの説教ともいうべき話をします。その内容はまるで、イエス・キリストが最後の晩餐で語った話を思い出させるような内容です。最後の晩餐との比較はさておくとして、きょう取り上げた、パウロの話の前半部分には、福音宣教の苦労と覚悟とが述べられています。
パウロはまず開口一番、自分がどのように主に仕えてきたのか、ということを長老たちに述べます。それには三つのことが伴っていました。
一つは自分をまったく取るに足りない者と思う謙遜さです。主に仕えるということは、主の御前に謙遜であることは言うまでもありません。しかし、それは主に対する謙遜さばかりではなく、すべての人に対する謙遜さをも含むものです。福音を宣べ伝えようとする相手に対して、少しでも優越感を抱いているならば、どうして福音を正しく伝えることができるでしょうか。パウロは謙遜の限りを尽くして主に仕えてきたのでした。
二つ目に、パウロは涙を伴って主に仕えたということです。この涙の意味をパウロははっきりとは語っていませんが、ただ辛い涙というだけではないでしょう。あるいはただの悔し涙というのとも違うでしょう。パウロはコリントの教会に手紙を書くときに「涙ながらに手紙を書きました」と語っていますが、それは「あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうため」だと語っています(2コリント2:4)。パウロの涙の背後には愛があります。人々を愛すればこそ、福音に対する無理解に涙しながらも主に仕えてきたのです。
そして、三つ目には、試練を伴ってもなお主に仕えてきたということです。試練は人をくじきやすいものです。しかし、同時に試練は人を練り上げるものです。パウロの福音を伝える歩みは決して順風満帆ではありませんでした。しかし、どんな試練も神の御業をくじくことはできなかったのです。
最後にパウロは福音宣教への熱意をこう締めくくります。
「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
これはパウロ以来、福音の宣教に携わってきたあらゆるキリスト者の思いでもあります。