2013年5月30日(木)ある主の日の出来事(使徒20:7-12)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
日曜日を休日とするのは、日本では明治時代に入ってからのことです。言うまでもなく、それは欧米の習慣を真似て導入したものでした。その欧米の習慣は、日曜日を礼拝の日であるとするキリスト教会の伝統から来ていることは誰もが知っていることです。
ではいつから、キリスト教会は、ユダヤ教の安息日ではない日に集会をもつようになったのでしょうか。実はキリスト教会がいつからどういう経緯でどのような日にどういう集会をもつようになったのか、というのは、それほどはっきりと描けるものではありません。新約聖書の中にいくつか見られる集会の記事からは、あまりにも僅かな情報しか得ることができないからです。
しかし、そんな中でも、きょう取り上げようとしている個所は、初代教会の日曜日の集会の様子を描く貴重な個所と言ってよいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 20章7節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて3階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。
きょうの個所は、他の弟子たちと合流したパウロが、トロアスで過ごした7日間のうちのある日の出来事です。
「週の初めの日」という出だしで始まりますが、この「週の初めの日」という表現は、文字どおりには「もろもろの安息日の一つ」という言い方です。しかし、ここでは「数ある安息日のうちのある一日の出来事」という意味ではなく、「一週間のうちの最初の日」という意味です。同じような表現はキリストの復活を描いた福音書の記事にも見られます(マルコ16:2、ルカ24:1、ヨハネ20:1,19)。では一週間の最初の日とはいつか、というと、ユダヤの習慣では、週の最後の日が安息日、つまり金曜日の日没から土曜日の日没までですから、この場合は厳密には、土曜日の日没から日曜日の日没までを指します。
少し細かい話になってしまいますが、きょうの場面はともし火を必要とするほど暗い時間帯のことです。ユダヤの習慣通りに解釈すれば、週の最初の日は土曜日の日没から始まりますから、きょうの出来事は土曜日の夕刻から夜中にかけての出来事ということになります。しかし、ヨハネ福音書20章19節のように「週の初めの日の夕方」という表現は、土曜日の夕方ではなく、日曜日の夕方を指す場合もあります。とすれば、きょうの場面は日曜日の夕刻から始まって、夜中にまで及ぶ出来事ということになります。おそらく、ここでは日曜日の夕刻の出来事ではないかと考えられます。
というのは、キリスト教会が週の初めの日に集会をもつようになったのは、週の初めの日の朝早く甦られたキリストを記念するためであったと考えられるので、集会が土曜日の日没から夜中にかけて持たれるとは考えにくいからです。
この記事よりは50年ほど後の時代になりますが、小プリニウスがトラヤヌス皇帝にあてた2世紀初頭の書簡の中にこんな文章が出てきます。
「彼ら(クリスチャン)は通常ある決まった日の日の出前に集まり、あたかも神に対するかのようにキリストに対して歌を歌い交わす」
ここでいうある決まった日というのは、週の最初の日、ということでしょう。その夜明け前というのは、日曜日の夜明け前のことです。
また1世紀末から2世紀に書かれた文書の中に『ディダケー』と呼ばれる書物があります。この書物の中に「主の主の日」という表現が出てきます(14章)。同じく2世紀初頭に書かれたマグネシアのクリスチャンへ宛てて書かれたイグナティオスの手紙には、「主の日」という言葉がユダヤ教の「安息日」と対比されて論じられています。「主の日」というのはこの場合イエス・キリストが復活された日で、日曜日を指しています。この時代になると、あえてユダヤ教の安息日と対比させて、キリスト教会の礼拝が意識されるようになったことがうかがわれます。
こうしたことを考えると、おそらくパウロたちがトロアスで守った集会というのは日曜日の出来事ではなかったかと思われます。そうであるとすれば、日曜日に集会が持たれた数少ない証拠の一つであるということができます。もちろん、パウロ自身は安息日にはユダヤ人の会堂へ出向いていたこともありましたから、ユダヤ教の礼拝とキリスト教の礼拝は、この時点ではまだ並行して持たれていたのかもしれません。しかし、ユダヤ教を経ないで直接キリスト教に改宗した異邦人にとっては、もはやユダヤ教の安息日を守る必要は薄れ、日曜日の集会だけが、キリスト教にとっての礼拝の日となっていったのではないかと思われます。少なくとも先に挙げた小プリニウスやイグナティオスの時代には、キリスト教独自の礼拝が日曜日に持たれていたのではないかと思われます。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、このキリスト教の集会の記事には興味深いことが記されています。もちろん、この集会でパンを裂くというキリスト教独自の礼拝が守られていたことは言うまでもありません。
それに加えて、エウティコという青年が、窓に腰を掛けてパウロの話を聞いているうちに、眠りこけて3階から下に落ちてしまった、というエピソードを書き加えています。
エウティコという青年は、後にも先にもここにしか名前の出てこない人物です。読みようによっては、集会中に居眠りをした人物として、随分不名誉な記事を後代にまで残されてしまったことになります。
しかし、使徒言行録はこの記事をエウティコの不名誉な記事として残そうとしたのでは決してありません。そうではなく、この青年が生きて帰ることができた喜びを伝えているのです。この青年を連れて帰った人々は大いに慰められたとあります。
集会中に居眠りをした不届きな青年なのではなく、日が暮れてからしか集まることができないこの時代に、体の疲れを覚えながらも熱心にパウロの話に耳を傾けた青年なのです。
礼拝は暇だから時間があるから集うわけではありません。この青年にとっては労働の合間に集会に駆けつけたのかもしれません。そうした人々が数多く集うキリスト教会の集会の様子を、きょうの記事に垣間見る思いがします。