2013年5月23日(木)再びマケドニアからギリシアへ(使徒20:1-6)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どこの教会でもそうだと思いますが、教会の歩みが10年、20年と積み重なっていくと、教会の歴史を編纂しようとする動きが起こります。そうして、○○教会10年史、20年史といった冊子が生れます。
 その場合、何を歴史に残し、何を割愛するかは、歴史を編纂する人の裁量が大きく影響します。書かれていることがすべてではもちろんないはずです。これは教会の歴史に限らず、どんな歴史にも言えることで、歴史を編纂する者の歴史観や意図が取り上げる内容にも影響するからです。
 実はきょう取り上げようとする個所は、使徒言行録では、あっさりと書かれています。しかし、パウロの書いた手紙と突き合わせて読むときに、この期間の出来事は、そんなにあっさりしたものではないことが分かります。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 20章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。パウロは、シリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコとセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロフィモであった。この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていたが、わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、5日でトロアスに来て彼らと落ち合い、7日間そこに滞在した。

 前々回と前回の2回にわたって、エフェソの町で起こった騒動について取り上げました。きょうの個所では、その騒動が収まって、いよいよエフェソを出立して、マケドニア、ギリシアに向かい、再び小アジアのトロアスに戻ってくるまでのことが手短に記されています。期間にしてどんなに少なく見積もったとしても、ギリシアに三ヶ月滞在したのですから、旅全体が三カ月を超える長さであったことは明らかです(使徒20:3)。しかし、おそらくはそれよりももっと長い期間だっただろうと思われます。
 そして、ここを読む限り、その旅路は特に大きな問題も起こらない平穏無事な旅のような印象を受けます。ただ、旅の最後の場面で、パウロに対するユダヤ人たちの陰謀が発覚して、旅の進路を変更せざるを得なかったと使徒言行録は報告しているだけです。

 しかし、この時のパウロを取り巻く実際の状況は、パウロ自身が書いたコリントへの信徒の手紙の中に垣間見ることができます。
 コリントの信徒へ宛てた手紙は、現存するものが2通、新約聖書の中に残されています。そのうちの第一の手紙は、まだパウロがエフェソに滞在していた時に書かれたものであることは、コリントの信徒への手紙一の16章8節から明らかです。この時パウロは、マケドニア経由でコリントへ向かう計画をコリントの信徒たちに知らせていますが(1コリント16:5)、エフェソを出発するのは五旬祭を過ぎてからのことになる、とその計画を述べています。(おそらく、その年代は54年か55年の五旬祭のことだと思われます。)五旬祭が終わって無事にエフェソを出発し、コリントで冬を過ごしたい計画でした。

 この時、パウロにはコリントを訪問すべき二つの理由がありました。一つはエルサレムの貧しい人々のために集められた募金を受け取ってエルサレムへ持って行くためでした(1コリント16:1-4)。もう一つは、コリント教会が抱えていた様々の問題を解決するために、パウロはコリントへ向かう予定でした(1コリント4:18-21、11:34)。そうであればこそ、パウロ自身が手紙の中で書いているように、この訪問は旅のついでに立ち寄るといったものではなく、しばらくの期間、腰を据えて滞在する必要があったのです(1コリント16:7)。

 では、パウロのコリント訪問の予定は、計画通り進んだのでしょうか。パウロがコリントの教会に宛てて書いた第二の手紙を読むと、コリントへの三度目の訪問計画が述べられています(2コリント12:14、13:1)。パウロがコリントを訪ねるのは、第二回目の宣教旅行の時に一年半滞在したのが最初で、二度目の訪問が、コリントの信徒への手紙一の16章5節以下に述べられている訪問の計画だとすると、三回目の訪問をしなければならない理由があったということになります。
 それは二度目の訪問がうまく行かなかったからにほかなりません。コリントの信徒に宛てた第二の手紙を読むと、二度目の訪問は、コリントの教会を悲しませる結果に終わったようで(2コリント2:1)、しかも手紙でしかパウロのことを知らないコリント教会のある人々にとっては、パウロは手紙では重々しく力強いけれども、実際会ってみると大したことはないという印象を与えたようです(2コリント10:10)。

 そうであればこそ、コリントの信徒に宛てた第二の手紙では三度目の訪問のことが述べられているのです。

 使徒言行録には何事もなくコリント(ギリシア)にまで行き、そこに三ヶ月ほど滞在してまた戻ってきたように書かれていますが、実際にはコリント教会に対する解決しなければならない数々の問題で、パウロには悩みの尽きない旅だったはずです。
 しかし、使徒言行録はそれらの詳細をすべて割愛して、旅の旅程だけを手短に記しています。実際コリント教会の問題は、20年以上も経って記された使徒言行録の著者にとっては、特別に書き記さなければならないほどの大きな問題ではなかったのでしょう。

 むしろ、使徒言行録は旅の詳細を記す代わりに、コリントからマケドニアを経由して、トロアスに向かうパウロに同行した人々の名前を列挙しています。この一団の人たちは命を狙われたパウロの護衛団なのではなく、エルサレム訪問の目的に欠かすことのできない人たちだったと思われます。つまり、エルサレム教会の貧しい人たちのために各地で捧げられた献金を携えた人々だったのでしょう。
 名前を挙げられた7名のうち、5名はここ以外にも名前が登場する人物ですが、ソパトロとセクンドはここにしか登場しない人物です。ソパトロはローマの信徒への手紙16章21節に出てくるソシパトロではないかと考えられています。有名無名かは別として、ただ献金が届けられるのではなく、それぞれの地域から遣わされた7人が献金を携えるところに教会的なインパクトがあったと考えられます。

 三回目の宣教旅行の終わりは、パウロにとってはコリント教会の問題で頭を痛める時期でもありましたが、しかし、異邦人の手によってエルサレム教会の貧しい人たちに対する愛の実を届けることができたということは、やはり大きな意義をもった出来事ということがでます。何よりもそれは愛による教会の一致を表しているからです。