2013年5月2日(木)魔術からの解放(使徒19:11-20)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
簡単に成功を収めたいという誘惑は、人間にとって今も昔も変わらないようです。エバを誘惑した蛇は、善悪を知る木の実を食べると、神のように善悪を知るものとなる、と言ってエバをそそのかしました。木の実を一口かじって神のようになれるのなら、こんな簡単な成功の道はありません。しかし、神との約束を破った代償は、神のようになれるどころか、神からの怒りを買うほどの堕落でした。簡単な方法で超人的な力を手に入れることができると思い込むほど愚かなことはありません。魔術にしろ何にしろ、簡単に力を手に入れると思わせるところに、神から心をそらす危険が満ちています。
きょう取り上げる個所にも、見よう見まねで聖霊の力を簡単に自分のものとできると思い込む愚かな人が登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 19章11節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の7人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨5万枚にもなった。このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。
パウロは三度目の宣教旅行の際に、小アジアの都市、エフェソに比較的長く滞在しました。そのエフェソでの出来事から学んでいます。
今回の記事ではパウロが行った癒しの奇跡がまず報告されます。パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けをもっていって病人に当てるだけで病気が癒され、悪霊が出ていくというのですから、それは魔法か魔術のように思われても仕方ないくらいです。
使徒言行録がこのことを記しているのは、言うまでもなく、それをパウロ個人の特殊な能力や、獲得した特殊な呪文や小道具のゆえだと紹介するためではありません。
使徒言行録がそれを聖霊の賜物の一つとして理解していることは疑うことができません。ただ聖霊だけが癒しの奇跡をもたらす力を人に授けることができるという理解は、新約聖書に共通した理解です。それも、聖霊を受けた者が必ず手にすることができる賜物だとは思われていないようです。実際、使徒言行録の中で、癒しの奇跡をおこなうのは、ペトロやフィリポやパウロと言ったごく限られた人だけだからです。
ところが、このパウロの行う奇跡を見たユダヤ人の祈祷師のある者たちが、見よう見まねでイエスの名によって悪霊を追い出そうと試みたというのです。しかしながら、悪霊どもがこの祈祷師たちの偽りを見破り、この祈祷師たちをひどい目に遭わせたと、出来事の顛末を使徒言行録はユーモラスに描きます。
この使徒言行録には8章で既に、お金で聖霊の賜物を手に入れようとした魔術師シモンの愚かな行いが描かれていましたが、ここでは、イエスの名前さえ語れば、同じような奇跡を手に入れると思い込む人たちの愚かな行いが描かれています。聖霊の賜物はお金によって手に入るものではないばかりか、見よう見まねで手に入れることも、イエスの名を語るだけで自動的に手に入れることができるものでもありません。しかし、言われるまでもなく分かり切ったようなことを、安易に求めてしまうのが人間の愚かさです。目に見える驚くような結果を、いとも簡単に手に入れようとする愚かな思いです。
その思いは神への畏れや、神の力への信頼とはおおよそ関係のないものです。言い換えるなら、彼らが求めていたものは、パウロが伝えている福音の内容とはおおよそかけ離れたものだったのです。
パウロが述べ伝えていた福音は、自分の罪の大きさに絶望し、神が遣わす救い主イエス・キリストだけがこの罪の悲惨さから自分を救う力のあるお方だと信じ、このキリストにだけより頼むことで、救いを無償で得られるとする教えです。その福音を心から信じ受け入れる者だけに、聖霊が降り、聖霊の様々な賜物が与えられるのです。
そうした真摯な信仰を抜きにして、イエスの名前を語り、その力だけを借用できると思いこむ人間の身勝手な生き方こそ、人間の罪深い本性なのです。
さて、使徒言行録はこの事件のよい影響を報告しています。一つは「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」ということです。
モーセの十戒に、主の名をみだりに唱えてはならない、という戒めがありますが、まるで呪文でも唱えるように聖なる御名をみだりに唱えることが罪であるとするならば、この戒めが真に求めていることは、ただこの罪を犯さない、ということではありません。むしろ、主の御名を心から崇めることこそ、この戒めの中心です。
この事件の良い影響は、一つには主の御名があがめられる機会を人々に提供したということです。
この事件のもう一つの良い影響は、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」ということです。信仰に入った人たちは、この事件を決して他人事とは思わなかったということです。あの愚かなユダヤ人の祈祷師たちの行いを笑って済まそうとはしなかったのです。真剣に自分の問題として捉え、自分の罪の問題として受け止め、真摯に自分の罪を告白したということです。
さらに、この事件のもたらした良い影響は、「魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた」ということです。魔術や占いというのは、結局は少ない努力で人間を成功へと導く手段です。確かに、そういう手段を必要としている人間の限界や、人生の不条理に目をつぶることはできませんが、しかし、魔術や占いがそうしたことをほんとうに克服させる手段とはなりえないのです。
今回の事件が魔術を求める人たちの生き方や考え方にも影響を与えたということは、大きな影響でした。
このユーモラスな事件を他人事と思って笑わずに、自分の生き方を考える事件として捉える事が、この記事を読むわたしたちにも求められているのではないでしょうか。