2013年4月18日(木)洗礼と聖霊(使徒19:1-6)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
福音書が教える洗礼者ヨハネとイエス・キリストとの関係は、とてもシンプルです。洗礼者ヨハネはやがて来るべきメシアの先駆者として遣わされ、メシアを迎えるにふさわしく人々を整えるために、人々に悔い改めの洗礼を授けた人物です。彼自身は神から遣わされた者でしたが、メシア自身ではなく、あくまでもメシアを指し示し、人々の心をメシアに向かわせる働きをする人でした。
それに対して、イエス・キリストは約束されたメシアその人であり、聖霊によって洗礼を授けるお方として描かれています。洗礼者ヨハネが指し示していたのは、このイエス・キリストに他なりません。
このことは福音書を読んだだけでも明白なことではありますが、しかし、実際には洗礼者ヨハネの影響は大きく、イエス・キリストに自分自身をうまくバトンタッチすることができなかった人たちもいたようです。
きょうの個所に出てくる人たちはそういう人たちの集団です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 19章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
アポロがコリントにいたときのことである。パウロは、内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。パウロが、「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、「ヨハネの洗礼です」と言った。そこで、パウロは言った。「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです。」人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。
前回は雄弁な説教者アポロについて取り上げました。このアポロはエフェソにいたとき、正しい洗礼についての知識を、プリスキラとアキラ夫妻から学びました。きょうは、このアポロがコリントへ遣わされた後に、エフェソへやってきたパウロが出会った弟子たちについて学びます。
パウロがエフェソにやってくるのは、今回で二度目です。既に学んだ通り、パウロはごくわずかの期間、船の日程の関係でエフェソに滞在しました。第二回の宣教旅行を終えて、シリア州へ帰る途中の出来事です。
きょう取り上げるのは、第三回目の宣教旅行で再びエフェソを訪れた時のことです。小アジアの内陸を通って東端にあるエフェソに着いたパウロは、そこで何人かの弟子たちに出会ったとあります。
この「何人かの弟子」がどういう弟子であったのかは、使徒言行録には詳細に記されてはいません。ただ、彼らは「弟子」とは呼ばれますが、「聖霊」についての知識がなく、ヨハネの洗礼だけを知っているという人々でした。ある意味、それは先週取り上げたアポロに似た部分があります。アポロもまた洗礼者ヨハネの洗礼しか知らない人でした。
この人たちとアポロの関係について、使徒言行録は特に述べてはいません。アポロに影響を及ぼしたのが、この人たちであったのか、あるいは逆で、かつてのアポロが影響を与えた人たちであったのかもしれません。あるいはアポロとは全く関係の無い別の集団であったのかもしれません。
そもそも、「弟子たち」という言い方は、キリストを信じる「弟子たち」とも取れますが、まだキリストを信じているのではなく、洗礼者ヨハネの教えの影響を受けている「弟子たち」とも取れます。使徒言行録と同じ著者が記したルカによる福音書では、洗礼者ヨハネの弟子たちも「弟子たち」と呼ばれています(ルカ7:18、11:1)。
もっとも、ここに登場する人々が、洗礼者ヨハネから直接教えを受け、悔い改めの洗礼を受けた人たちであった可能性は低いと思われます。むしろ、洗礼者ヨハネの教えに直接影響を受けた人たちから、間接的に話を聴き、洗礼を受けた人たちであったのかもしれません。洗礼者ヨハネ自身も聖霊について教えた人でしたから、つまり、自分の後に来られる方が、聖霊と火で洗礼をお授けになるということを教えた人でしたから、ここに登場する弟子たちが、洗礼者ヨハネから直接教えを聞いた人たちであれば、聖霊があるということをまるで初めて聞いたかのような反応はしなかったことでしょう。
さて、このような弟子たちに出会ったパウロは、さっそく彼らに正しい洗礼について教えます。それは洗礼者ヨハネの洗礼とイエスの名による洗礼の違いについてです。洗礼者ヨハネの授けた洗礼は、後に遣わされるメシアを迎えるにふさわしい悔い改めの証しとして授けられる洗礼でした。それに対してイエスの名による洗礼は、ヨハネが予告して告げた聖霊による洗礼です。
それで、その弟子たちはイエスの名による洗礼を受けたとあり、パウロが彼らの上に手を置くと聖霊が降ったとあります。この書き方は一見、イエスの名による水の洗礼と、聖霊による洗礼とは別のことのような印象を受けるかもしれません。
確かに、使徒言行録の描く洗礼の記事には、イエスの名によって洗礼を受けただけで、まだ聖霊が降っていない人々がいるように描かれている個所がないわけではありません。使徒言行録8章に描かれるサマリア人の記事では、まさに洗礼が聖霊の降臨に先立っています。
しかし、使徒言行録では逆の事例についても記されています。例えば、ペトロが福音を伝えたコルネリウスの家での集会では、そこに集まった異邦人たちにまず聖霊が降り、それを確認して、イエス・キリストの名によって洗礼が授けられます。
つまり、使徒言行録は、イエスの名による水による洗礼と、聖霊が各自に降ることとは、この順序でおこる二段階の出来事というよりは、むしろ、どちらが先という出来事の順序に意味があるのではなく、イエスの名による洗礼とは、洗礼者ヨハネによる洗礼とは違って、聖霊が与えられることと不可分に結び付いているという事なのです。
キリスト教の洗礼は、聖霊の働きと不可分で、その聖霊と切り離した洗礼というものは考えることができません。イエスの名による洗礼を授け、つづいて聖霊が降るために手を置いた、という二つの出来事について使徒言行録は語っているのではなく、洗礼者ヨハネが授け得なかった洗礼、すなわち、聖霊による洗礼を、キリストは授けてくださったということなのです。そして、キリスト者となることは、この聖霊による洗礼を受けることと切り離して考えることはできません。不完全な人であっても、いえ、不完全であるからこそ、聖霊が一人一人に必要なのです。