2013年4月4日(木)第二回宣教旅行の終わりと新たな出発(使徒18:18-23)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
使徒言行録に記されたパウロの宣教旅行の記事を、何の想像力も働かせないで読んでいると、おおむね順調な宣教の旅であったかのような印象を受けてしまいます。もちろん、訪れる町々で受ける困難を、使徒言行録の著者は決して小さなことと過小に描いているわけではありません。しかし、困難はあったにせよ、著者が伝えたいことは、困難を上回るほど、神の国の福音が周辺世界に伝わったという様子です。そう言う意味では、パウロの直面した数々の困難よりも、神の国の福音が力強く広がっていく様子をこそ、この書物から読みとって行くべきです。
しかし、この書物が直接は触れていない事柄にも目を留め、パウロの宣教旅行の全体像を知っておくことは、使徒言行録を理解する上で大切なことと思います。それはわたしたちが伝道をする際に、たとえ困難に直面することがあっても、なお聖霊の力を信じて伝道の働きを続けることができるためです。
さて、きょう取り上げる個所には、第二回宣教旅行から戻るパウロと、再び宣教旅行に出かけるパウロの姿が描かれています。特にこれと言って重大なことが描かれている個所ではありませんが、しかし、この狭間のような記事からも学びとっていきたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 18章18節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。
使徒言行録の18章は、第二回宣教旅行最後の滞在地、コリントでの出来事が記されていました。この土地には少なくとも1年6ヶ月は留まりましたから(18:11)、当然他の町での出来事よりも、多くの事が記されてもおかしくはありません。しかし、実際にコリントでの様子のために割かれたスペースはごく僅かです。ただ、幸いなことに、このコリントに生れた教会には、パウロが後に二通の手紙を書いています。おそらく、この二通の手紙が書かれたのは、コリントでの伝道を終えてから、そう遠くない時期に書かれたものだと思われます。
先週もお話ししましたが、パウロがコリントへやってきたのは、紀元49年よりも後で、遅くとも53年よりも前のことです。おそらくは地方総督ガリオンの在任期間から考えて、51年から52年にかけての1年半ではなかったかと思われます。
そして、コリント教会へ宛てた二通の手紙は、次の宣教旅行の際に3年にわたって滞在したエフェソから出されたものと思われます。つまり、コリント滞在の時からそう離れていない時に書かれた手紙ですから、そこに描かれている事柄は、パウロがコリントに滞在していた時から、すでに問題が潜伏していたと考えてよいだろうと思われます。要するに使徒言行録に記されているコリントの様子は、この町での伝道活動の断片であって、パウロが向き合わなければならなかった実際の教会の問題は、パウロの手紙が記す通り、それ以上に多岐にわたっていたということです。コリントの信徒へ宛てた手紙と読み合わせて、この地での伝道と教会形成の全体像を知っておく必要を覚えます。
さて、きょう取り上げた個所は「パウロは、なおしばらくここに滞在した」という言葉で始まります。ここでいう「なおしばらく」という期間が、パウロのコリント滞在の期間として明記されている1年6ヶ月に含まれるのか、それとは別に、なおしばらくの間コリントにとどまったのかは、明らかではありません。しかし、どちらにしても、使徒言行録の著者にとっては、このことに敢えて触れる意味は大きかったと思います。というのは、今まで学んできた様々な場所での福音宣教の働きは、ほとんど、余韻を残さずに町を撤退するものであったからです。町を追われるようにして次の伝道地へと移っていくパウロの姿と比べれば、ここで、なおしばらくの間滞在できたということは、大きな伝道の成果を予想させるものです。特にこの使徒言行録がコリントでの出来事として最後に記した、ユダヤ人たちからの強力な反対の動きからすれば、混乱の中でなお滞在することができたのは、大きな神の恵みということができるでしょう。
次から次へと場所を移りながら始めた宣教の旅も、この最終地では比較的、腰を落ち着けて行うことができたということです。もちろん、コリントの信徒への手紙の中に記されている教会の混乱した様子を読むと、この地に建てられた教会が、多くの問題を抱えた教会であることが分かります。しかし、それでも神はこの地での宣教の働きを長く続けることができるようにと導いてくださったのです。
第二回宣教旅行について、もう一度振り返っておきたいのですが、この宣教旅行は、最も仲の良かったバルナバとのけんか別れから始まりました。予定していたアジア州での宣教活動も、ほとんど道が閉ざされてしまい、その時点では、行き詰った終わりを迎えるように、誰の目にも思われました。しかし、このアジア州で道を閉ざされたことが、海をさらに渡ってマケドニア州への宣教活動へとつながっていったのでした。
マケドニア州の宣教の成果は、それぞれの町に新しい群れを生み出していったとは言うものの、それでも長期にわたる伝道活動は行うことができませんでした。しかし、見方を変えれば、追われるようにして出ていったからこそ、アカイア州のコリントにまで足をのばし、さらにはそこで1年半もの活動を行うことができたのです。こうして、第二回の伝道の働きをまとめてみれば、一見人間的な困難に満ちた伝道活動であるように感じられますが、それは他ならない聖霊の導きと支えによる、押し出された伝道活動であったということが理解できます。
使徒言行録は、聖霊の力を受けた弟子たちが、やがて、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、イエスの証人となる、と約束するキリストの言葉を記しました(1:8)。その言葉の通り、弟子たちは聖霊の力に押し出されて、第二回の宣教旅行でも福音が伝わる範囲を拡大していったのでした。
さて、コリントを去ったパウロはシリアに向かって出発しケンクレイア、エフェソを経由して、エルサレム、アンティオキアへと戻っていきます。そして、ここには第三回宣教旅行への序章ともなるべきエフェソでのエピソードが記されています。エフェソに立ち寄ったのは船の都合でほんの数日間の出来事と思われますが、その僅かな期間にもパウロは会堂で福音を語り、やがて、次の宣教旅行では、このエフェソで3年にわたる伝道活動を行うことになります。使徒言行録があまり詳しくは記さなかった伝道の困難を覚えながらも、しかし、それを上回る聖霊の働きに目を留めていきたいと思います。