2013年3月28日(木)地方総督ガリオン(使徒18:12-16)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ものを書くということは、何か目的があってのことです。聖書ももちろん目的があって書きしるされているわけですから、何のためにそれが記されているのか、その目的にそって読むことが大切です。しかし、何のために書かれているのか、いつも明瞭であるとは限りません。
きょう取り上げようとしている使徒言行録の記事も、現代の読者にとってその意図が必ずしも明瞭ではありません。もちろん、使徒言行録の著者が、読者に何かそこから学ばせようとして、積極的にこの記事を書いているというわけではないのかもしれません。ただ単に、コリントで起こったことを後世に伝えたい、という単純な思いから書きしるしただけかもしれません。しかし、そうであるとしても、なぜこの出来事を選んで伝えようとしたのか、この出来事を使徒言行録の著者はどの様に評価しているのか、やはり現代の私たちには判断の難しい個所です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 18章12節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」そして、彼らを法廷から追い出した。すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。
前回の学びから引き続き、コリントでのパウロの伝道活動から学んでいます。先週取り上げた個所の最後に、パウロは1年6か月の間コリントに留まって伝道をしたことが記されていました。1年6か月という期間は短いように思われますが、このコリントに至るまで、パウロがたどってきた場所場所での伝道の期間に比べれば、かなり腰を据えての活動ということができます。しかし、そんなにも長い期間にわたる活動ではありましたが、コリントでの出来事について、滞在期間に見合っただけのスペースを割いて、使徒言行録はその報告を記しているわけではありません。使徒言行録には限られた紙面しかないのですから、当然、記すべき事がらも取捨選択されたに違いありません。そうであるとすれば、コリントでの滞在期間中に起こった数ある出来事の中から、なぜこの事件が選ばれたのか、そして、使徒言行録の著者は、このことを通して、読者に何を語ろうとしているのか、とても興味を覚えます。
記されている出来事そのものは、それほど複雑なものではありません。コリント伝道のある時期に、パウロがユダヤ人から訴えられた、という事件です。しかし、事件を扱う地方総督のガリオンは、この訴えをユダヤ人の宗教的な教えをめぐる争いとして、法廷の場で争うことを拒んで、訴えを門前払いしてしまいます。これが出来事の大雑把なあらましです。
ここに登場するガリオンは、修辞学で有名なマルクス・アンナエウス・セネカの息子にあたる人物です。デルフォイの碑文から、ガリオンがアカイア州の地方総督の職にあったのは、おそらく紀元51年から52年にかけての短い期間です。ですから、この出来事がおこった時代も数年の誤差で特定できます。
ちなみに、前回取り上げた個所に出てきたクラウディウス帝によるユダヤ人のローマからの追放令が49年頃の出来事でしたから、今回のガリオンの地方総督在任時期とあわせて考えると、パウロのコリントでの滞在期間は紀元49年より後で、53年よりも前の期間のうちの1年半ということになります。
さて、今までにも、ユダヤ人から訴えられると言うことは経験済みのパウロでした。例えば、テサロニケでは、パウロはイエスという別な王がいると吹聴しているかどで、ユダヤ人から訴えられています。この場合、ユダヤ人たちの訴えはある意味でとても巧妙でした。というのは、ユダヤ人にとっては、パウロは自分たちの教えに反する者であることは明らかであるわけですが、パウロの活動を阻止するために、政治の手を借りようとしているからです。宗教の問題を政治の問題とすり替えているのです。
コリントにいたユダヤ人たちも同じように政治の問題としてパウロを訴え出れば、地方総督を自分たちの味方につけて、ことを有利に運ぶことができたかもしれません。実はコリントのユダヤ人たちもそうしたかったのかもしれません。
というのも、ユダヤ人たちの訴えの言葉は次のようなものであったからです。
「この男は、法律に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」
今しがた、あえて「法律」と言う言葉を使いましたが、もちろん、翻訳聖書では「律法」と訳されています。もともとの言葉ではノモスという単語が使われていて、前後の文脈でユダヤ人の「律法」と訳されたり、あるいはローマの「法律」とも訳すことができる言葉です。
この場合、ユダヤ人たちは自分たちの律法に反しているという理由でパウロを訴えでたのか、それとも、ローマの法に反する仕方で礼拝を行う邪教だとして、ガリオンを自分たちの味方につけようと訴えでたのか、どちらの可能性にもとれます。テサロニケのユダヤ人たちの前例から考えれば、コリントでも同じようにローマの法に触れる宗教を伝える者として、彼らはパウロを訴え出たのかもしれません。
ただ、そうだとしても、今回の場合、ガリオンは事柄の本質を見抜く力をもっていたという点で、他の町の当局者とは違っていました。ガリオンはこの訴えが、まったくユダヤ人の宗教の問題であることを見抜いて、取り上げようともしなかったということです。そういう意味でガリオンは政治の問題と宗教の問題とを区別できる賢い目を持っていたということができるでしょう。
おそらく、使徒言行録の著者もそのことを高く評価して、この出来事を伝えたのだろうと思われます。
ところが、もしそうであるとすれば、そのあとに続く出来事をどう読んだら良いのか、戸惑いを感じます。
使徒言行録は、群衆が会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけたことを報告し、ガリオンはそれに全く心を留めなかったことを書き記しています。
そもそもここで登場する「会堂長のソステネ」なる人物が何者であるのか、また、なぜ群衆から暴行を加えられたのか、現代の読者にはまったくの謎です。
同じ名前のソステネは、コリントの信徒への手紙一の中では、手紙の差出人の一人に名前が加えられています。もし、同一人物であるとすれば、門前払いを食らったユダヤ人の群衆が、キリスト者となったソステネに暴行を加えたということでしょうか。そうであるとすれば、そのような暴力事件にたいしても無関心を装うガリオンは、結局、事柄が犯罪であれ、宗教問題であれ、厄介なことには関わりを持ちたくないだけの人物であったということでしょう。